第51話:脱出と変身、カディスの太陽の下へ
ホテルのスイートルームはこの一週間、刺激的な香りに包まれていた。
レオノールが渚の指示で買い集めてきたスパイスの山。
そして軍医のジャンが持ち込んだアルコールランプやフラスコ。
そこは一種の実験室と化していたが、開発は完全に行き詰まっていた。
「……うーん。やっぱりアレが足りない。ナポレオンさんが好むような、脳にガツンと効く成分が……。このままだとただの薬膳シロップだよ…」
狙っているのは現代の「エナジードリンク」のような覚醒作用。
だが、渚の知識のカフェインはコーヒーや茶葉で止まっており、高カフェインな植物など皆目見当がつかなかった。
「コーヒー豆を濃く煮出せば、エスプレッソコーヒーになっちゃう。それなら今まで通りコーヒー飲めば良いわけだし……」
机に突っ伏してぶつぶつと呟く渚。
煮詰まった空気を見かねて、レオノールが声を上げた。
「もう! そんな難しい顔してたら名案も逃げちゃうわ。ナギ様、これに着替えて!」
レオノールが広げたのは、鮮やかな刺繍が施されたコットンのドレスだった。
フランス貴族の重苦しい装いとは正反対の、健康的で機能的な市民の服だ。
「ええっ!? こ、これ、私が着てもいいの!?」
渚は目を輝かせた。
生地は軽く、袖は腕の動きを妨げない。
何よりも、あの息苦しいコルセットを必要としないデザインだった。
「かわいいー! コルセットもいらないなんて……! ドレスに比べてなんて機能的なの!」
袖を通し、腰帯をきゅっと締める。
その瞬間、肺がどこまでも大きく広がる感覚に、渚は久しぶりの「呼吸の自由」を噛み締めた。
レオノールは手早く渚の髪をまとめ、可愛らしいサイドポニーテールへと結い上げた。
一瞬にして、生命力に溢れる「街角の少女」へと変貌を遂げた。
「完璧! さあ、足りない材料を探しに市場へ出発よ!」
渚は喜び勇んで駆け出そうとしたが、ふと足を止めた。
「……ねえ、レオノール。私たち、ホテルを出てもいいの? フランス軍に缶詰めにされてるのかと思ってたんだけど……」
「大丈夫よ! 安心して。この港は、うちの父さん(ロドリゴ)が隅から隅まで見張ってるんだから。フランス軍さんの目より、父さんの傭兵仲間の目の方がずっと確実よ」
背後でジャンが「さすがスペイン軍が雇う傭兵だ……。フランス軍の警備網より頼りになるとはな」と苦笑しながら荷物をまとめる。
一歩、外へ踏み出すと、12月でもまだ暑い太陽と潮の香りが渚を包んだ。
久しぶりの日光に一瞬たじろいだが、石畳を叩く靴の音と、弾むサイドポニーテールが彼女の背中を押した。
コルセットのない胸で思い切り吸い込んだ空気は、驚くほどスパイシーで自由な味がした。
「よし! 市場をくまなく見てまわろう!」
活気溢れる市場を歩きながら、渚はまた独り言を始めた。
「……そもそも、コーラのカフェインって何なの? 現代じゃ当たり前すぎて考えたこともなかったけど、やっぱりコーヒー豆じゃない何かが……」
その呟きを聞き咎めたレオノールが、不思議そうに首を傾げた。
「ナギサ様。さっきから『コーラ』って言ってるの……それって、『コーラナッツ』のこと?」
「え?」
渚は足を止め、レオノールを二度見した。
「今、なんて言ったの? コーラ……ナッツ?」
「そうよ。あっちの店によく転がってるわ。アフリカの奴隷船の男たちが、元気を出したり喉の渇きを癒したりするために噛んでる、すっごく苦い木の実」
渚の頭の中で、バラバラだったパズルが音を立てて繋がった。
「ええええっ!? コーラって、『木の実の名前』だったの!?」
「えっ、そうだよ!? 名前は知ってるのに正体を知らなかったの?」
現代では飲み物の名前でしかない「コーラ」が、この時代では「得体の知れない実」として実在している。
「レオノール、それよ! その実を買い占めるわよ!」
渚はドレスの裾を翻し、店へと走り出した。
埃を被った籠の中に、ごつごつした褐色の実を見つけた瞬間、確信が走る。
これこそが最強の覚醒飲料の名前にもなってる実…。
歓喜する渚だったが、ふと思いついてジャンを少し横に引っ張った。
「ねえ、ジャン。……ついでに聞くんだけど、この市場に『コカ』っていう植物はある?」
「ん?コカ? うーん、聞いたことがないな」
ジャンの返答に、渚は「……そっか。良かったぁ」と、心の底から安堵のため息を漏らした。
(良かった……。あれは、あったとしても絶対に使っちゃいけないものだから。この時代にまだ広まってなくて本当に助かった……!)
もし現代のコーラの「初期レシピ」の様に、コカの葉っぱを使ったら、フランス軍とスペイン軍が滅茶苦茶になりかねない。
「ナギサ様? その『コカ』とやらは、そんなに素晴らしい薬効が?」
「あれは……いや、いいの私の勘違い!忘れて!」
渚の並々ならぬ気迫に、ジャンはよく分からないが頷くしかなかった。
「よし! じゃあ、このコーラナッツで試作しよう!」
渚が震える手でそのナッツを掲げ、満面の笑みを浮かべた、その時だった。
「――ナギサ殿!?」
背後から、驚きと焦燥が混じった、聞き慣れたアドリアンの声が響いた。




