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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第三章:フランス・スペイン連合艦隊

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第50話:騎士の焦燥と、女神の錬金術

カディスの空に祝砲が響き渡り、フランス・スペイン連合艦隊が事実上の産声を上げた。



その裏で、提督府の一室は、押し寄せる静かな事務処理の波に飲み込まれていた。



 アドリアンは、ボナパルト第一執政へ送るための報告書を精査していた。



だが、その指先が握る羽ペンは、数分前から同じ行の上で微かに震えている。



(……入浴の介助を?)



 先ほど受けた、警備担当の部下からの報告。



それは、彼の脳内に、到底受け入れがたい残像を焼き付けていた。



『――副官殿、ホテルの警備状況ですが、ディエゴ閣下が雇っている傭兵ロドリゴに確認したところ……軍医のジャン殿が、ナギ様の入浴の準備から……その、介助まで行ってるとのことです……』



 その報告を聞いた瞬間、アドリアンは眉一つ動かさず、ただ静かにこう命じていた。




『……すぐに身辺の確かな女性を付けろ。ロドリゴ殿に、大至急依頼するように』



 声は極めて冷静だったはずだ。


だが、退出する部下の背中が怯えたように丸まっていたことを、彼は今さらながらに思い出す。



 現在は女性使用人としてロドリゴの末の娘がついたと聞いている。


だが――。



(ジャンは軍医だ。衛生管理の一環と言われれば、それまでかもしれん。……だがナギサ殿は子どもではない。そもそも介助がいるのもの?…それは「不埒」なものではないのかと頭から離れぬ)



 自問自答すればするほど、胸の奥には泥沼のような独占欲が沈殿していく。



自制心が、自分でも制御しきれない焦燥感によって、少しずつ、けれど確実に削り取られていた。



「……アドリアン。もしその報告書に、私への恨み言ではなく、ボナパルトへの忠誠を書いているのであれば、いい加減次のページへ進んでくれないか」



 隣で淡々とペンを動かしていたルブランが、冷ややかな声を投げた。



「……失礼した、ルブラン公使。少々、警備上の懸念事項を整理していただけだ」



「ほう。ペン先が紙に穴を開けそうなほどの『懸念事項』か。随分と熱心なことだな」



 ルブランの皮肉を、アドリアンは貴族的な無表情で受け流す。



だが、その耳たぶだけが、隠しきれぬ熱を帯びて赤く染まっていた。



「あらあら、いいじゃない。熱心なのは結構なことよ」



 そこへ、場を華やかに彩るような足取りで、シャルル提督が現れた。


手元には、三客のティーカップが載った銀のトレイがある。



「見て、これ。レモンジュースのシロップよ。紅茶に入れると、すんごい美味しいのよ。もう、これがないと仕事にならないくらい。……あなたたちも、いかがかしら?」



 シャルルは琥珀色の液体に、黄金のシロップをたっぷり落としてみせる。


爽やかで、どこか癖になるスパイシーな香りが、澱んだ部屋の空気に魔法をかけた。



「……ナギ殿の、シロップ、ですか」



アドリアンが、不本意そうにカップを引き寄せる。


一口含めば、鼻に抜けるレモンの香りと薬膳のごとく効くスパイスが熱を持ち、嫉妬で焼け付いていた脳を更に強引に掻き回す。



シャルルはそれを見逃さなかった。



「ふふ、どう? 体の芯から熱くなるでしょう。……でも、アドリアン。あんたのそのモンモンとした顔、このシロップの毒だったかしら?」



 シャルルはカップを口元に運び、アドリアンの反応を愉しむように目を細めた。



「本当は、シロップなんてどうでもよくて、今この瞬間もホテルで汗を流しながら、これを一生懸命作ってるナギちゃんのことが、気になって気になって仕方ないんでしょう?」



「……っ、提督。滅相もないことを。私はただ、軍紀を――」



「はいはい、軍記ね。あんたのその生真面目な顔の裏側で、例の『入浴報告』がぐるぐる回ってるのが丸わかりよ。……ナギ、真面目にジャンと楽しそうに新しい『薬』を煮詰めてるかしら?……あら? アドリアン、その書類、インクが滲んでるわよ?」



「……提督。先ほども申し上げましたが、私はただ、フランス軍の副官として、不適切な事態を憂慮しているだけで――」



「いいのよ、素直になりなさいな。今すぐ飛んでいって、『私の許可なくナギに触れるな!』って、怒鳴りつけてやりたいんでしょう?」



「なっ……! 提督、それはあまりに――!」



 アドリアンの筆が、ついに完全に止まった。



 制御不能な嫉妬心にシロップに火をつけられ、彼はもはや報告書の文言を一行も思い出せなくなっていた。



 そんな二人を、机の向こう側から眺めていたルブランが、重く、深いため息を吐き出した。



「……はぁぁぁ……。もういい。もうたくさんだ」



 ルブランはペンを置き、眉間を指で強く押さえながら、死んだような魚の目で二人を交互に見た。



「シャルル、頼むから彼をこれ以上かき回さないでくれ。そしてアドリアン殿、その様子ではこの報告書に『私はナギ殿が心配でなりません』と書き込みかねん」



「ルブラン公使、それは誤解だ、私は――」



「いいから行け! この部屋の空気までソワソワし始めて、私の作業効率が最悪だ!」



 ルブランはアドリアンの前に積まれた書類を力任せに奪い取ると、しっしっと手を振った。



「清書は私がやる。その代わり、ホテルに戻ったら女神に伝えてくれ。……次は脳に直接効くような、もっと毒性の強いやつを作れとな。このままでは私の精神が持たん……」



 公使の切実すぎる悲鳴に近い締め出しに、アドリアンは一瞬呆然としたが、やがて小さく、けれど確かな足取りで立ち上がった。



「……不本意ながら、公使の業務効率を妨げるのは本意ではない。三十分……いや、一時間以内に戻る」



「もう戻ってくるなと言いたいところ、だがね…」



 ルブランの毒づく声を背に、アドリアンは逃げるように、それでいて心なしか弾むような足取りで部屋を飛び出していった。



 静かになった部屋で、シャルルは満足そうにレモンティーを啜り、ルブランは再び絶望的な量の書類に向き直った。カディスの午後は、まだ始まったばかりだった。


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