第49話:既成事実 ― 暁の強制代印 ―
朝焼けの光が、停泊する連合艦隊の帆を真っ赤に染めている。
本来なら1805年まで数年の不信感と妥協の中で結ばれるはずだった「連合」が、今、カディスの熱気の中で一気に沸点に達しようとしていた。
部屋には、胃を痛めながらも覚悟を決めたヴィルヌーヴ。
鼻息の荒いグラビーナと、その後ろで仁王立ちする猛将ディエゴ。
そして、冷徹な提督の顔をしたシャルルと、その傍らで事務処理を完璧にこなすアドリアンと、夜明けのカディス駐在公使ルブランが揃っていた。
シャルルは椅子から立ち上がり、鋭い眼光で一同を見渡した。
「……さて、紳士諸君。朝日が昇った。始めようか」
シャルルが、ルブランが血眼で書き上げたばかりの『暫定合意文書』をテーブルに叩きつけた。
そこに、普段のごとき柔和な響きは一切ない。
「グラビーナ提督。貴公には、我が軍が管理する『黄金の液』の独占販売権、ならびにそれによる利益をスペイン軍の軍事費として計上することを認める。……代わりに、今この瞬間から、貴公の艦隊は我が指揮下に入ってもらう」
「……この紙切れ一枚で、我が国の艦隊を貴公に預けろと言うのか。あまりにも手順を無視している!」
グラビーナが唸る。
だが、その声に拒絶の色はない。
背後に立つディエゴが、ギラついた目で追い打ちをかける。
「閣下! 形式などは後から整えれば済むことです! 現場は既に動いている。あの工場の利益で、我が兵たちは数ヶ月ぶりに腹一杯の飯を食った。今さら『やっぱり同盟はなしだ』などと言えば、カディスで暴動が起きますぞ!」
「……民衆と兵まで味方につけているのか、あの『女神』は。……いいだろう、認めよう! シャルル提督、貴公が後ろに隠しているあの『知恵者』の策に、我らも乗らせてもらおうじゃないか」
グラビーナは、むしろ清々しい表情で羽ペンを走らせた。
対照的に、それを見ていたヴィルヌーヴは、こみ上げる胃酸を飲み込むように顔を歪めた。
「……狂っている。グラビーナ殿、貴公までこの狂気に加担するのか」
ヴィルヌーヴは震える手で自分の額を押さえた。
手順を無視し、本国の承認も得ず、勝手にスペイン艦隊を飲み込む……。
その責任の重さを想像するだけで、意識が遠のきそうだった。
しかし、シャルルの冷徹な視線が彼を逃がさない。
(……逆らえば、この男は何をするかわからん。いや、断る勇気など、今の私には……)
「ヴィルヌーヴ提督。貴公の承認も必要だ。……一蓮托生、だろう?」
「……ああ、もういい! 好きにしろ! アドリアン、この『事後承諾書』を即座にパリへ送れ。……処刑台へ向かう仲間が欲しかったところだ」
ヴィルヌーヴは半ば投げやりに、なし崩し的に承認の印を押し、そのまま崩れるように椅子に深く背を預けた。
「アドリアン、ディエゴ! 直ちに全艦へ信号旗を掲げろ。我らは本日より、共同演習の名の下に『一つ』となる!」
シャルルの号令とともに、カディスの全艦から、一斉に連合結成を告げる祝砲が放たれた。
轟音が響く中、ルブランは書類を鞄に詰め込み、シャルルにだけ聞こえる低い声で毒づいた。
「……ふう。これでひとまず、外交官としての俺の首も、アンタの無茶な作戦と一緒に繋がったわけだ。さて、ここからは泥臭い外交官の戦いだ。俺は本国に向けて、この暴挙を『フランスの国益』として認めさせるための報告書を書く。外務省の古狸どもを黙らせるには、まだ時間がかかるが……一歩も引くつもりはない」
「頼んだぞ、ルブラン」
シャルルもまた、信頼を込めた低い声で応えた。
一方、グラビーナもまた、ディエゴを振り返り鋭く命じた。
「ディエゴ、我らもマドリードのスペイン公使へ正式な打診の準備を始めるぞ。宮廷の腰抜けどもが文句を言う前に、『黄金の工場』がもたらす富の目録を突きつけてやるのだ。正式な締結まで、我らが盾となろう!」
正式な同盟締結というゴールは、まだ不確かなものだ。
しかし、カディスの港では確実に、「歴史の歯車」が強引に噛み合わされ、一歩前へと進み始めていた。
ジブラルタルでこの音を聞くアーサーは、まだ知らない。
神の予定表(史実)にはない、あまりにも早すぎる「連合」の胎動が、すでに始まっていることを。




