第45話:女神の予感と、毒のような薬膳
「……ねえジャン。これからフランス軍……ナポレオン第一執政は、どこへ向かうと思う?」
お風呂上がりのリラックスした空気の中、ナギはふと真剣な顔で問いかけた。
ナギの濡れた髪からは、以前ジャンから貰ったお気に入りの香油――
ジャスミンの可憐な華やかさと、アンバーの黄金色の甘さが溶け合うような香りがふわりと漂っている。
「おいおい、そんなの俺に聞かないでくれよ」
ジャンは苦笑しながら、手元の薬草を整理する手を止めた。
「……さぁ、今はイギリス上陸に向けてブローニュにいるみたいだが…だが海を渡るには金も船も、兵士の健康も足りてねぇ。だから俺たちがここにいるんだ。
まぁあの人の勢いだ。アルプスを越えた次は、もっと遠い……もっと寒い国まで行くかもしれないな」
ジャンの軽い言葉に、ナギの背中に冷たいものが走った。
(……ロシア遠征。歴史じゃ、冬将軍に負けて、何十万人もの兵士が凍えて死ぬんだ)
まだ起こっていないはずの、雪原に散る兵士たちの残像。
(そこまで私が生きてるとも限らないけど……でも)
「もし、その『寒い場所』で戦うことになったら、兵士たちはどうなるの?」
「……最悪だ」
ジャンの目が、一瞬で軍医のそれに変わる。
「凍傷で手足は腐り、体温を奪われて肺炎でバタバタ倒れる。軍医にとっては地獄絵図だよ。そんな場所、行くもんじゃないね」
ナギは手元の蜂蜜の瓶をじっと見つめ、決意を固めたように顔を上げた。
甘い香りを漂わせる少女の口から出たのは、戦場を、そして歴史を変える「劇薬」の構想だった。
「ジャン。じゃあ、このレモンジュースが、もっと薬のような『命を守る飲み物』だったらどう? ただのビタミン補給だけじゃない……体の芯から火を灯して、凍える夜でも生き残れるような、最強の飲み物!」
「……!」
今ですら、ナギの持ち込んだレシピは壊血病予防の特効薬として、軍内の常識を塗り替えつつある。
それをさらに昇華させるというのか。
「……蜂蜜、シナモン、唐辛子、生姜……あのジャム化したレシピより、もっとか?」
「そう。ブラックペッパーを大量に入れて、手に入るなら砂糖を加えて、刺激とエネルギーを極限まで高めるの!」
ジャンは一瞬呆気にとられたが、その脳は即座に軍医として、科学者としての計算を始めた。
「……どれも血行を促進し、胃腸から体温を爆上げする特効薬だ。そこに高濃度の糖分をぶち込めば、即効性のエネルギー源になる。……ナギ、それはもはやジュースじゃない。戦場での『飲む焚き火』だ」
ジャンの顔に、狂気にも似た情熱の笑みが浮かぶ。
彼は勢いよく立ち上がると、扉を蹴り開ける勢いで廊下の用心棒に怒鳴った。
「ロドリゴ! 女神が砂糖を所望だ! 最高級の、純度の高い砂糖を持ってこい!」
暗がりに立っていたロドリゴは、ジャンのただならぬ気迫に一瞬だけ目を見開いたが、すぐに状況を察して頷いた。
「……わかった。市内の商人を叩き起こしてでも用意する」
ロドリゴは交代の兵を呼び寄せると、嵐のようにホテルを後にした。
「材料ならカディスにある。ここは世界中からスパイスが届く港だ。ブランデーで防腐してジャム化する技術は、俺たちの手にある」
ジャンはナギの隣に座り直し、羊皮紙を広げた。
ナギの纏うジャスミンとアンバーの可憐な香りと、机に並べられた刺激的なスパイスの――
喉を焼くような匂いが混ざり合う。
「よし、ナギ。その『命を救う毒』……いや、女神の劇薬、作ってみようじゃないか」
「え!?なんで毒?!話聞いてた?!」
夜が更けるのも忘れ、二人は机いっぱいにスパイスの図解と配合比率を書き殴っていく。
それは1803年の技術と、200年後の知恵が混ざり合う、歴史への挑戦状だった。




