第43話:残像のプロファイル
夜の帳が下りたカディス港。
一隻の小さなボートが、荒れる波間を抜けて岸壁へと滑り込んだ。
ボートから降り立った男は、いつもの端正な軍服を脱ぎ捨てていた。
飾り気のない麻のシャツに厚手のベスト。スペインの街並みに溶け込むための「迷彩」を纏った、アドリアンだ。
彼は迷うことなく、人気のない倉庫街の影へと足を踏み入れる。
そこには、一人の男が待っていた。
「……そろそろ来る頃だと思っていたぜ、アドリアン」
暗がりに火を灯したのは、ディエゴ提督の『用心棒』、ロドリゴだ。
彼は、あの不届きな『お貴族様』を捕らえ、そして「処分」した男である。
「状況はどうだ」
アドリアンの短い問いに、ロドリゴは忌々しげに煙草を地面で踏み消した。
「……ああ。例の『幽霊』のことか」
「幽霊……?」
ロドリゴは、かつての潜伏先であった高級ホテルの方向を顎で示した。
「あの部屋には毎晩、女が呼ばれていた形跡があった。だがな、その女を買いに行っていたのは、あのお貴族様じゃねぇ。常にマントを羽織った、あの連れの男だ」
アドリアンは眉を微かに動かす。
「……男が、女を買いに?」
「ああ。店側の証言じゃ、男はいつも一人で現れ、流暢なスペイン語を話していたそうだ。顔を深く隠していたが、間違いなく東洋人の顔つきだったとよ」
ロドリゴは少し間を置いて、自身の見立てを口にした。
「東洋人は若く見えるらしいが、声や喋り方からするに……三十代前半、といったところだと。男はその日のお貴族様の機嫌に合わせた女を選び、金と時間を指定してホテルへ運ばせていた。……まるで、家畜に餌を与えるようにな」
アドリアンは、ロドリゴが語る「マントの男」の行動を頭の中で整理する。
(三十代前半……。ナギサとは、かなり歳が離れているな……)
それは、経験を積んだ「プロ」であることを示唆していた。
「……女たちはスペイン語しか話せねぇ。一方で、部屋の中の主導権を握るマントの男とあのお貴族様は、常にフランス語で密談を続けていたそうだ」
「女はただの飾り、あるいは目隠しか」
「ああ。女が言うには、男は一度も女に手を出さず、あのお貴族様が女を抱いている間も、死んだような魚の目でじっとこちらを見ていただけだったそうだ。……女の一人が震えながら言ってたぜ。『あの人の目は、一度も笑っていなかった』とな」
アドリアンは沈黙した。
完璧なスペイン語を操り、裏ではフランス語で支配する。
それは、並の教育を受けた貴族や王族ですら不可能な、異常な言語知識と冷徹さだ。
(『フランス語は喋れるけど、筆記は……英語なら書けます』)
アドリアンの脳裏に、かつて渚が漏らした言葉が浮かぶ。
彼女が持つ「異世界の知識」と、この男が持つ「多言語の壁を感じさせない能力」。二つの点が見事に重なった。
「奴はこの時代の『情』には興味がない直感的。ただ効率的に、自分たちの正体を隠しながら現地の男になりすましている……」
「……ロドリゴ。奴の足取りは」
「俺が踏み込んだ時には、もう気配もなかった。……まるで最初から、俺たちがいつ踏み込んでくるかを知っていたような逃げ足だ。あのお貴族様の前にはマントの男しか現れなかったようだが、部屋には他にも複数人が潜伏していた痕跡があった」
ロドリゴは腰の銃に手をかけ、暗い海を見つめた。
「アドリアン。お前の主に伝えておけ。あれは、俺たちのような『人殺し』の理屈では測れない奴だぞ。……闇を抱える『何か』だ」
「……重々、承知している」
ロドリゴが不意に、アドリアンへ向けて硬貨を投げた。
アドリアンはそれを空中で鋭く掴み取る。
「……唯一の証拠だ」
掌の上で鈍い光を放つのは、純度の高い金貨。
そこには、忌々しい**『ロンドン』**の刻印が刻まれていた。
「……あと一つ。花を手向けるなら西の海岸だ」
西の海岸――。
銃殺刑が執行された場所。
その意味を知るのは、ここにいる二人と、そして主であるシャルルだけだ。
アドリアンは翻り、再びボートへと戻る。
一刻も早く、旗艦へ。
主の元へ戻らねばならない。
1803年の海を、1805年の絶望へと無理やり引きずり込む影。
加速する処刑台へのカウントダウンを止める猶予は、もうどこにも残されていなかった。




