第40話:加速する処刑台
「……おかしいのよ、アドリアン」
司令官室の片隅。
シャルルは、渚の預言を訳した紙をなぞりながら、絞り出すような声で呟いた。
「ボナパルト第一執政の動き、陸の軍令……それらはナギの『予言書』と完全に一致しているわ。……でも、海はどう?」
アドリアンは端正な顔を歪め、海図と予言書を突き合わせた。
「本来なら、1803年はまだ準備期間のはずと。5月にイギリスとの『アミアンの和約』が予言と同く破棄されましたが、提督がこのカディスへ追い詰められるのは1805年……。本来なら、二年も先の事…」
だが、現実は残酷だった。
ヴィルヌーヴ提督は「預言」とは違う不可解な命令を出され、破棄からわずか数ヶ月で、敗北の地へと『強制配置』されてしまった。
「ナギが海上の歴史だけ、嘘を書いたとは思えないかしら?」
シャルルの問いに、アドリアンは即座に首を振った。
「ありえないわよね。あの子の命は、今この船と共にある。 自分が生き残るために未来を教えているあの子が、海上という生死の境で、自分の首を絞めるような嘘をつくはずがないわ」
部屋の空気が、一気に凍りつく。
ナギが正しい。ナギは嘘をついていない。
だとしたら、導き出される結論は一つしかない。
「……ナギが記した『正しい未来』を、我々意外の何者かが知っている」
「その知識を逆手に取り、さらに先を走っている者がいる可能性、ね」
数年前から続く、イギリス海軍の神がかり的な先読み。
すべてが、この『加速』のためだったとしたら。
「最近ネルソンの側近となった、アーサーという男が怪しいです」
シャルルの脳裏に、ディエゴから届いた報告が浮かぶ。
――【マントを羽織った、東洋人の男】。
「ナギがうなされていた『ナルセ』という名。……もしナギと同じくこの海にいたとしたら…」
渚がフランス軍もたらす「生存の光」なら。
もう一方は我々を「最短距離で滅亡へ導く闇」だ。
「……アドリアン。向こうには『悪魔』がいると思わない?」
「確かめるしかありません。……その男が、本当にナギサ殿の航海図を歪めているのか。」
アドリアンは無言で立ち上がり、軍帽を深く被り直した。
「シャルル様。私がボートで港へ向かいます。東洋人の痕跡……この目で」
夜の帳が下りたカディス港。
一隻の小さなボートが、荒れる波間へと消えていく。
1803年でありながら、1805年の絶望が吹き荒れる――。
誰も知らない死の海域へと変貌した、トラファルガーだった。




