第37話:ヴィルヌーヴ提督の憂鬱
「アミアンの和約」破棄と同時に、港がイギリスに封鎖される寸前。
「ヴィルヌーヴ、お前はカリブ海へ向かい、あそこのイギリス領を荒らしまわれ。敵の本隊が追いかけていったら、すぐに反転してフランスに戻ってこい。その隙に我ら陸軍がイギリスへ上陸する!」
そのおとり作戦のために、私は提督に抜擢された。
だが、現実はどうだ。
執政閣下に命じられるままカリブ海を回ったが、イギリス艦隊は一度たりとも、その姿を現さなかったのだ。
「……どこにいる? いつ追いかけてくる?どこで我々を見ているのだ」
見えない敵に監視されているという妄想は、日に日に私の胃を焼き、夜の眠りを奪っていった。
すると、次は何だ。
カリブ海での空振りに業を煮やした執政閣下から、今度は「奴らの本拠、地中海へ殴り込め」という無茶な命令が下った。
恐る恐る地中海への入り口を目指せば、案の定、呪いのような大嵐が我々を襲った。
荒狂う波の中で、私は死を覚悟した。いや、むしろ死んだ方が楽になれるとさえ思った。
だが、運命は……いや、あの「あの女」は、私を死なせてはくれなかった。
嵐の暗闇の中、私の視界に飛び込んできたのは、別動隊として地中海遠征に出ていたシャルルが率いる艦隊の灯火だった。
激しい奔流に揉まれ、思考を停止させた私は、まるで吸い寄せられる磁石のように、彼らの艦隊に導かれるままついていったのだ。
彼らがどこへ向かっているのか、そこが地獄の入り口なのかも確かめずに。
しかも、何だ。
嵐を抜けると、あの無駄な約3ヶ月の遠征では一度も出くわさなかったイギリス軍の裏をかき、あろうことか奇襲にまで成功したのだ。
アミアンの和約が破棄されてから、まだ半年。
イギリス軍の隙を突いた……。
だが、歓喜すべきはずの勝鬨が、今の私には葬送の鐘にしか聞こえない。
なぜ、シャルルに従った途端、目の前に「都合よく」獲物が現れた?
それに、この感覚は何だ。
つい昨日までカリブの熱風に吹かれていたはずなのに、瞬きをした間に、私はこの冬のカディスに立っている。
不気味な運命の引き合わせが、私の正気を削っていく。
まるで、彼に手柄を立てさせるために、何者かが舞台を整えていたかのようではないか。
霧が晴れた目の前に広がっていたのは、ジブラルタルのすぐ隣――スペイン、カディス港。
巨大な見えない手が、我々という駒を掴み、チェス盤の「処刑台」の上へ、丁寧に、そして強引に配置し直したかのようだった。
「……狂っている。どいつもこいつも、あの女を中心に狂っている」
私は司令官室の窓から、港の様子を眺めて絶望した。
そこには、フランス軍の作業員に混じって、スペイン軍の荒くれ者たちが歌を歌いながら資材を運ぶ姿があった。
本来なら、酒場で殴り合いの喧嘩をしていてもおかしくない連中が、だ。
「報告を。ヴィルヌーヴ提督」
背後から、重厚な足音が響く。スペイン海軍の至宝、フェデリコ・グラビーナ提督だ。
彼は、少し前まで私の前で慎重論を唱えていたはずだった。
だが、今の彼の目は、まるで新兵のような熱を帯びている。
「……グラビーナ提督。貴公まで、連合艦隊をと言うつもりか?」
「私の意思ではない。……ディエゴが、引かんのだぁ」
グラビーナは困ったように、だがどこか楽しげに肩をすくめた。
ディエゴ。
現場で叩き上げてきたあの猛将が、グラビーナの執務室に乗り込み、渚がもたらした「翡翠の宝石箱(野菜の保存食)」を突きつけてこう吠えたという。
『閣下! あのフランスの小娘は、我らスペインの命を繋ぐ聖母だ!』
あの頑固なディエゴが、上司であるグラビーナに「独断」をちらつかせてまで、連合への合流を迫ったのだ。
現場の兵たちが「女神」に心酔し、ディエゴがそれを後押しし、ついに理性の塊であるグラビーナまでもが、その熱量に押し流された。
「……ヴィルヌーヴ提督。『黄金の工場』の契約のこの瞬間から、貴公らフランス軍と一蓮托生だ」
「……」
私は眩暈を覚えた。
現場のディエゴが暴走し、その上司のグラビーナが折れ、そして今、その全ての責任が私の肩に、なし崩し的にのしかかってきた。
私は、「言い訳用の報告書」をゴミ箱へ放り投げた。
「春までに、連合艦隊を正式なものにするための『事後承諾書』を書き上げる。」
……グラビーナ、貴公にはスペイン王室への根回しを頼むぞ。……ああ、神よ。私はただ、暇な冬を過ごしたかっただけなのに!




