第36話:強欲の猟犬と毒の安堵
数刻後。
旗艦の提督室に、カディス市街にて「イギリスのスパイ」が銃殺刑に処されたという報せが届いた。
「……そう。お疲れ様、下がっていいわ」
報告を聞き終えたシャルルは、長く重い沈黙のあと、ゆっくりと扇を閉じた。
その横顔には、肉親を失った悲しみなど微塵もなかった。
そこにあるのは、自分と艦隊を破滅させかねなかった危うい存在が、最も「都合のいい形」で消え去ったことへの、毒のように甘い安堵だった。
(まさか、これほど簡単に片付いてしまうなんて……)
連座の恐怖、ボナパルトへの釈明、軍内での地位。
それらを一気に、かつ完璧に解決したのは、皮肉にも同盟国の強欲な男が振るった暴力だった。
「それにしても、あのディエゴがこれほど完璧に立ち回るなんてね。よほど優秀な部下を飼っているのかしら…」
シャルルは自嘲気味に微笑むと、机の上に置かれた一枚の紙を手に取った。
そこには、ナギサから教わった他の『レシピ』が記されている。
「この借りは、あまりにも巨大いわね……。アドリアン、これをディエゴの元へ」
差し出された紙を、アドリアンは恭しく受け取った。
主人が今、どのような暗い安堵を胸に秘めているのか。
彼はすべてを察しながら、ただ一言、短く応じた。
「――滞りなく」
アドリアンはそのまま音もなく背を向け、部屋を去っていった。
一方その頃、船内の厨房近くでは、そんな血生臭いやり取りなど露ほども知らない渚が、ジャンを捕まえて目を輝かせていた。
「へぇー、この時代のこの辺りだと、そんな薬草が手に入るんだ! じゃあ、この薬品と組み合わせれば……」
渚はメモ帳を広げ、ジャンから聞き出した食材や薬品のリストと、自分の現代知識を必死に照らし合わせていた。
「ナギ、ほどほどにな。……ジュースみたいなのは
やめてくれ!あの重労働だけは、もう二度と勘弁だぞ」
ジャンは腱鞘炎になりそうなほど果実を絞り続けた日々を思い出したのか、心底げっそりとした顔で釘を刺す。
「大丈夫だって! 今回はシャルル様のおかげで量産体制がバッチリ整ったから、もうジャンに手作業で絞らせたりしないよ。……ごめんね、まさかのあんなに大事になるなんて思わなかったから」
渚が少し済まなそうに眉を下げて謝ると、ジャンは一瞬呆気にとられたような顔をし、すぐにふん、と鼻を鳴らした。
「……分かればいい。ようやく本来の医務に専念できそうだ」
そう言いながらも、ジャンの表情からは刺々しさが消えていた。
渚はそれを見てケラケラと笑い、彼の肩をポンと叩いた。
「あはは! 自分がこんな所で料理研究者になるとは思わなかったよ! 人生、何が起きるか分からないねぇ!」
渚の陽気な笑い声が、船の廊下に響き渡る。
一人の若者の命を代償に、歴史の歯車は音を立てて狂い始めていた。
だが、その中心にいる少女は、まだ自分の存在がどれほど残酷に世界を塗り替えているのかを、知る由もなかった。




