第35話:敵国の犬としての最期
護岸を離れていたシャルルの元へも、ディエゴの使者より異端審問所の不穏な動きが伝えられていた。
「提督、異端審問官がリュシアンと結託し、ナギサ殿を『異端』として連行する準備を整えたようです。……いかがいたしますか?」
アドリアンが剣の柄に手をかけ、鋭い殺気を放つ。
しかしシャルルは、優雅に扇を翻し、仮面の下で余裕の笑みを漏らした。
「心配いらないわ、アドリアン。……もう、この事業の本当の『怖さ』を知っている強欲な猟犬ディエゴが、勝手に動いているはずよ。私たちは、ただ美味しいレモンティーでも飲んで待っていましょう」
(先立って沖に出たのは正解だったようね)
シャルルはそう告げると、伝令の部下たちを早々に部屋から下がらせた。
人払いが済んだ静寂の中、アドリアンが低い声で疑問を呈する。
「……提督。一つ腑に落ちないことがございます。あのリュシアンが異端審問所に駆け込んだところで、あの中世の亡霊共がこれほど迅速に動けるものでしょうか」
シャルルは扇を閉じ、窓の外に広がるカディスの夜景をじっと見つめた。
「そうね。あの子の頭で、これほど手際よく異端審問を動かせるはずがないわ。……背後に、手引きしているイギリスの犬がいる」
シャルルの声に、冷徹な軍人の響きが混じる。
「もしリュシアンがイギリスと通じたとなれば、私という駒は、ナポレオンの手によって即座に捨てられるでしょうね。……姉の時やあなたの家族のように、連座でこの船員は皆、道連れにされるでしょうね…」
その頃、カディスの夜を支配していたのは、ディエゴ提督が飼っている「海軍の用心棒」ことロドリゴだった。
ロドリゴ率いる精鋭たちは、最高級ホテルの一室を完全に包囲していた。
「……はあ、はあ。おい、もっと酒を持ってこい! ルカどこにいる!」
部屋の中では、リュシアンが下卑た笑い声を上げていた。
だが、その騒乱は、音もなく解錠された扉から流れ込んだ「死の気配」によって凍りつく。
「……な、何だ貴様ら! 急に入ってきて無礼……!」
叫びは、ロドリゴの合図で振り下ろされた銃床によって遮られた。
「流石にあなたまでもが捕まるのはまずい。引き上げる。これ以上は我々の関与も露呈させるだけだ」
異変を察知しホテルの外に潜んでいたルカにアーサーの部下が耳打ちし、闇の中へと消えていく。
室内を見渡しロドリゴが、冷徹に告げる。
「……マントの男は逃げたか。だが、このホテルに残された複数の潜伏痕。ここはイギリス工作員の巣窟だったということだ」
ロドリゴは、床で恐怖に震えるリュシアンを見下ろした。ディエゴからの命令は一つだ。
「私は同盟国であるフランスの貴族だぞ!!私の父上は…」
言いかけたリュシアンの口を、ロドリゴは強引に布で塞いだ。
「……貴様はイギリスの犬だ。名もなきスパイ。それがお前の正体だ」
それはロドリゴなりの、冷酷で完璧な配慮だった
息が出来ず、のたまうリュシアン。
シャルルの息子であることが分かれば、フランス軍もさらには、シャルルの命令で一大事業を押し進めようとするディエゴにとっても危うい事態となることを理解していた。
「ぐふー……!」
口を塞がれ顔は高揚し、しかし自分が何者であるかを必死に訴えようと暴れる。
「連れて行け。閣下のご命令により、明朝、即刻銃殺刑に処す」
リュシアンは恐怖と酸欠で、そのまま意識を失った。
翌朝。
カディス港の片隅で、乾いた銃声が数発、朝霧に消えた。
ディエゴは自室でその報告を耳にし、満足げにレモンティーを口にする。
(シャルルの『汚点』は、これで歴史から消えた。……さて、この『特大の貸し』をどう使ってやろうか、シャルル)
ディエゴの唇が、醜く吊り上がった。
「……もっとだ。もっと女神ナギサの知恵を授け、この私にさらなる富と、スペインを統べる権力を運んでくるがいい」
強欲という名の守護者が放つ哄笑が、朝の執務室に響き渡った。
歴史の歯車は、主導権を握ったはずの者たちの思惑を越えて、音を立てて狂い始めていた。




