第34話:黄金の守護者 ― ディエゴの野心 ―
カディスの街に漂うレモンの香りは、今やディエゴ提督にとって「権力の香り」そのものだった。
カディス港では、連合艦隊の出航準備が大詰めを迎えていた。
ディエゴは『黄金の工場』の契約後、直ちにマドリードのスペイン王宮へ向け、特急の早馬を放っている。
駅馬を乗り継ぎ、わずか三日で王都に届く、文字通りの死顧の伝令。
その書状には、信仰心など微塵もない冷徹な損得勘定と、狡猾な「脅し」が踊っていた。
『ナポレオン第一執政はすでに、フランス艦隊のシャルル提督を通じ、本事業を「フランス国家の最重要戦略」と見なしているとの報告を受けております。翻って、わが国の異端審問所がこの事業を「不敬」として妨害すれば、それはナポレオン個人への敵対行為と見なされ、わが国に侵攻の口実を与えることになるでしょう』
慢性的な財政難に喘ぐ王宮にとって、ディエゴが提示した富の還流は魅力的な救いだったが、書状の後半に記された「ナポレオンへの恐怖」こそが決定打となった。
フランスの巨人を怒らせれば、国の滅亡すらあり得る。
王室からの返信には、隠しきれない畏怖が滲んでいた。
『……フランス側の不興を買う不確定要素は、即座に、かつ徹底的に排除することを認める』
その「排除すべき不確定要素」こそが、時代遅れの異端審問所であった。
「フン。黒衣のネズミどもめ。この私が、どれほどの苦労をして王室の関心をこの『黄金の工場』に繋ぎ止めたと思っている。教会の古臭い理屈で、わが財布――すなわち国益をフイにするつもりか」
ディエゴの手元には、王宮がナポレオンへの恐怖から発行した「全権委任状」が握られていた。
「いいか。異端審問所を叩き潰せ。これは信仰の問題ではない。スペイン王室の財政に対する公然たる略奪、すなわち『経済的叛逆』だ」
五日前。
フランス軍のシャルル率いる艦隊は、他の艦隊に先んじてすでに護岸を離れ、沖合へと移動を開始していた。
「船を出せ。書簡を用意しろ! シャルル提督にも伝令を」
部下にそう告げるディエゴの胸中は、複雑な高揚感に満ちていた。
シャルルが自らの勘で渚を海へ逃がしたのだとしても、陸の脅威を物理的に排除するのは自分だ。
「これで、シャルルには大きな貸しを作ったことになるな。……もう一通書簡を。至急、王宮へ二の矢の早馬を出す準備をしろ」
深夜。
カディスの港へと続く暗い路地。
令状を手に、鼻息荒く歩く異端審問官たちの前に、ディエゴが飼っている「海軍の用心棒」たちが立ちふさがった。正規の兵士ではない。港の裏通りで腕を鳴らす、荒事専門の男たちだ。
「な、何だ貴様ら! 私は異端審問所の……!」
審問官の叫びは、有無を言わさぬ暴力にかき消された。ディエゴの部下たちは問答無用で聖職者らを殴り倒し、猿ぐつわを嵌めて袋に詰め込んだ。
翌朝。
地下倉庫の冷たい石床。
ディエゴは、震える審問官たちの前に立ち、没収したばかりの『ロンドンの純金貨』を、指先でチャリンと弄んだ。
「これをどこで手に入れた。答えろ。フランスの裏切り者が、イギリスの金を持って、スペインの富――渚を奪おうとしたのか?」
「ち、違う! 私たちは唆されたのだ! マントの男が金を出し、あの女は悪魔だと言ったのだ!」
審問官の泣き言を、ディエゴは冷笑で一蹴した。
「マドリードへの報告はすでに済んでいる。――『イギリスの潜入員が異端審問官を抱き込み、わが国の国策事業を破壊しようとした』とな。……今日を限りに、ガディスの異端審問所は無期限閉鎖だ」
本来、歴史の表舞台から異端審問所が完全に消えるのは、ナポレオンが侵攻する5年も先のことである。
だが、ディエゴという一人の強欲な男が、自分の利権を守り、ナポレオンを恐れる王室の臆病さを巧みに利用して振りかざした暴力によって、ガディスにおける中世の権威は、歴史の予定調和を無視して灰燼に帰したのである。
このディエゴの暴挙は、陰で糸を引いていた者たちにとっても、計算外の事態であった。
理知的な策略によって、異端審問所という刃を渚に突き立てたはずのルカ。
彼にとって、フランスへの配慮を優先したスペイン海軍が、自国の聖職者を物理的に排除するという「蛮行」は、予測し得ない大きな誤算であった。
歴史の歯車は、主導権を握ったはずの者たちの思惑を越えて、音を立てて狂い始めていた。
ディエゴは窓を開け、水平線の向こうを睨んだ。そこには、自分が守り抜いた「黄金の未来」が、朝日に輝く波間に揺れていた。




