第33話:黄金の幻、氷の法悦
カディス市内のホテルの一室。
ルカは、整えられた高級シーツの上で、泥に塗れた着の身着のまま横たわり、浅い眠りの中で微睡んでいた。
頬は削げ、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
かつての彼は、ただ己の執着に焼き尽くされ、絶望に身を震わせるだけの、惨めな一匹の獣に過ぎなかった。
その浅い眠りの中で、ありもしない「黄金の未来」への凄絶な執着が、毒のように溢れ出した。
(もし……あのパーティーの日、渚を強引に連れ出していたら)
夢の中のルカは、ダンスホールの喧騒の中、渚の手を強く引いていた。
行く手を阻むものは迷わずナイフで切り裂いて。
温かな血飛沫を浴びながらも、奪い去った渚の温もりだけを抱きしめ、夜の闇へと駆け出していく。
(もし……市場で見かけたとき、すべてを捨てて彼女をさらっていたら)
驚く彼女を無理やり馬車に押し込み、そのままガディスを脱出して、二人で小さな貿易商を始める。
そこには軍靴の音も、硝煙の臭いもない。渚が作る不恰好な家庭料理と、俺が計算する帳簿の音だけがある穏やかな日々。
(…ああ。渚の夢を叶えるために海に行こう)
俺と君の共有する現代の海洋知識と、航海士としての確かな技術。
その二つがあれば、この時代のどんな荒波だって越えていけたはずだ。
アーサーから盗み出した金ならいくらでもある。そうだ、船を買おうか、渚。
俺が一度は諦めた商社の夢。
君が焦がれた、水平線の先を見る夢。
それを一緒に叶えよう。
二人の専門知識を合わせれば、富なんて後からいくらでもついてくる。
「成瀬君、すごいよ! 本当に私たちだけでここまで来れたね!」
潮風に髪をなびかせ、太陽のような笑顔で俺を振り返る渚。
世界中の港を巡り、誰も見たことのない黄金の航路を切り拓いていく。
「成瀬君が生きていてくれて良かった」
渚は泣いて俺を抱きしめ、この10年間、アーサーに精神も肉体も陵辱され、尊厳を奪われ、汚泥の中を這いずり回りながら飼われ続けた「汚い俺」に、限りない慈悲を注いでくれる。
その腕の中でなら、犯され続けた記憶も、裏切りに染まった手も、すべてが浄化される。
跳ね起きると、そこにあるのは渚の体温ではなく、シーツの冷たい感触と、窓の外から漂うガディス港の喧騒だけだった。
現実は、彼女を独占できなかったという歪んだ嫉妬のために、彼女の夢を焼き払おうとしている。
「……クソっ……なぜだ、なぜなんだよ……!」
ルカは枕を投げつけ、血が滲むほど拳を震わせた。商社マンを目指した有能な自分はもう死んだ。
ここにいるのは、泥を啜りながら彼女の破滅を願う、最低の畜生だ。
――イギリス艦隊旗艦ヴィクトリー、アーサーの私室。
ルカから届けられた密告の書簡を手に、アーサーはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……ほう。手紙の文字が、これほどまでに震えているな」
いつも美しく正確に予言を綴ってきたルカ。
その完璧だった筆跡が、今は羊皮紙の上でのたうち回り、まるで「助けてくれ」と悲鳴を上げているようだ。
アーサーはその震えを愛おしむように指先でなぞり、ふっと口角を歪めた。
(苦しんでいるな、成瀬。かつての同胞を裏切り、愛した女の結晶を自ら壊さねばならぬ絶望に、君の心は悲鳴を上げている……)
それは怒りよりも深い、**倒錯した悦び(法悦)**だった。
自分の庇護がなければ呼吸もできないほどに追い詰められ、10年間その身を私に委ねてきた「飼い犬」が、涙を流しながら自分に縋ってくる。
その事実が、アーサーの歪んだ支配欲を芯から満たしていく。
「……アーサー様。さらなる報告が入っております」
影のように控えていた側近が、無機質な声で告げた。
「フランス軍の動向をかき乱し、成瀬殿の予言をことごとく無効化している『駒』の正体が判明しました。東洋人の女――今や連合艦隊において『女神』として崇め奉られている者が主導する工場は、スペインの物力を完全に掌握する巨大な兵站基地と化しています」
アーサーは短いため息をついた。
イギリスが10年間、成瀬の知識を独占することで得られた「ネルソン提督の側近」という今の地位。
それが今、一人の女の手によって壊されようとしている。
「……面白い。成瀬の予言(台本)に存在しなかった『記述なき空白』が、私の飼い犬をこれほどまでに追い詰め、狂わせるとはな。ルカはまだ泳がせておけ。絶望の淵で、彼が自らの手で愛する者の喉元を裂く、その最も無残で美しい瞬間を見届けたい」
アーサーは優雅に椅子から立ち上がると、整えられた軍服の襟を正した。
「さて……ネルソン提督に報告に行かねばならんな。我が軍の『勝利の秘策』が、フランスの女に盗まれたという、最高に不愉快で――愉快な報告をな」
冷酷な、だが満足げな笑みを浮かべたまま、アーサーは重厚な扉を開けて部屋を後にした。




