第32話:泥濘の密告者
カディス港は、狂信的なまでの「黄金色」に染まっていた。
スペイン提督ディエゴの執念は、かつてない狂気を帯びていた。
軍議の席で、シャルルから「女神への不敬な下心」と「職務怠慢」を冷徹に指弾された屈辱――。
あの場で晒した、鼻の下を伸ばして渚にすり寄っていた己の醜態を、彼はスペイン国家規模の物量で塗り潰そうと躍起になっていた。
「全アンダルシアからレモンを、カステリャからハチミツをを死に物狂いにかき集めろ! 運搬を拒む者は反逆罪だ! 街道という街道を、黄金の果実で埋め尽くせ!」
ディエゴの怒号が響く中、港には山のようなレモンが積み上げられ、巨大な釜からは甘酸っぱい蒸気が立ち昇る。
失った名誉を取り戻さんと、兵たちは「女神の処方箋」を形にするため、憑かれたように果実を絞り続けていた。
その異様な熱狂を、ルカは港の裏路地、魚の腐敗臭が漂う積み荷の影から、盗み見るように観た。
(……レモン? なぜこれほど大量の、保存のきかぬ果物を……)
この時代の、その色彩の意味を弾き出す。
火薬でも鉄でもない、戦場にはあまりに不釣り合いな香り。その正体に辿り着いた瞬間、ルカの心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
(……レモンジュース。いや、壊血病の特効薬か。……あれを、本当にスペイン軍がつくっているのか?!)
その時、ルカは自分が決定的に敗北したことを悟った。
ルカが持っている知恵は「近世ヨーロッパの歴史」だけだった。
だが、渚がこの時代に持ち込んだのは、その対極にある「命を繋ぐための知恵」だ。
料理を、日常を、そして人を愛する彼女らしい、あまりに眩しすぎる一手。
「……ああ、そうだ。渚は、あの子は……そんな『女の子』だった。」
泥を啜り、暗がりに潜む自分。
一方、その内側に潜ませた「優しさ」と「生活の記憶」で、この無骨な男たちの世界を変えようとしている。
そのまばゆい輝きが、潜影に堕ちたルカの瞳を、そして凍てついた心を、残酷なまでに焼き尽くした。
(渚…君はこのクソみたいな世界でも、何も変わらないのだな…)
ルカの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
かつて現代日本で「商社マン」を目指していた成瀬には、目の前の光景が持つ「価値」が誰よりも正しく理解できてしまった。
(……なんて、美しく、完成されたビジネスモデルだ……)
原材料の現地調達、軍による独占買い上げ、そして何より「命を救う」という絶対的な付加価値。
もし。もしも、彼女の隣にいられたなら。
商社の知識を持つ自分なら、この工場をさらに効率化し、彼女と共に成功への階段を駆け上がれたはずだった。
二人で汗をかき、笑い合いながら、この「黄金の海」を眺めていられたはずだったのだ。
だが、自分の隣に彼女はいない。
眩い光の中に立つ彼女の隣には――おそらく、あの夜、彼女を強く抱きしめていた「あの軍人」がいる。
胸は押しつぶれそうになり、激しく喉を焼く。
「……ぐっ、うああ……っ!」
肺に溜まった熱い塊を吐き出すように、ルカは呻いた。
(なぜ…なぜ…なぜなんだ…! なぜ俺はここにいて、奴が彼女の隣にいる!)
「……いつまで、あちら側の光を眺めているのですか?」
背後の闇から、冷ややかな声が響いた。
ハッと振り返ると、そこには密輸人としてルカを連れてきたアーサーの側近が立っていた。
ルカを「駒」として、あるいは「裏切り者」として監視する、蛇のような視線。
「忘れないでいただきたい。今の貴方は、こちらの泥を這い回る犬だということを。それとも、あの『女神』の慈悲でも乞いに行くつもりですか?」
ルカは奥歯を噛み締め、震える手で懐から書簡を書きをアーサーの部下に手渡した。
それは、かつて恋していた女性が作り上げた「奇跡」を、イギリス軍に売り渡すための告発状。
渚への断ち切れぬ想いを、泥を飲み込むような屈辱からまだ未だ震える手でそれを差し出した。
「……分かっている。これをアーサー様へ届けろ」
「ほう、内容は?」
「……連合艦隊が、ビタミン供給のための兵站基地を確立した。封鎖網による『時間稼ぎ』は、もう通用しない。……直ちに対策を打てと。そう、アーサー様に伝えろ」
監視役は冷笑を浮かべて書簡を受け取ると、ルカを一人、湿った暗い路地に残して消えた。
港では、ディエゴが醜態をそそぐために作り上げた「黄金の工場」が、今日も蒸気を上げている。
ルカは、かつての想い人が作り上げたその輝かしい光景を、ただ遠くから、顔を歪め見つめ続けることしかできなかった。




