第30話:深淵の軍議 ― 女神という名の異端 ―
カディスの司令官邸は、暴力的なまでの重圧に包まれていた。
フランスとスペインは「冷え切った同盟国」に過ぎなかった。
スペインはイギリスとの衝突を恐れて戦力を出し渋り、フランスはそんな隣国の不甲斐なさに苛立つ。
両国の間には深い溝があり、ましてやフランス海軍の軍事会議にスペインの提督が同席し、膝を突き合わせて作戦を練るなど、として絶対にあり得ない光景だった。
だが、カディスの司令官邸では青いフランス軍服の群れの中に、当然のような顔で座るスペインの白い制服。
窓外の海は冬の嵐の前触れで荒れ狂い、水平線にはネルソン率いる英国艦隊の封鎖網が、逃げ場のない檻のように横たわっている。
「……報告は以上だ。」
スペイン艦隊の副司令官、アントニオ・デ・エスカニョが、忌々しげに羊皮紙を叩いた。
議題の中心は、戦略ではなく「シャルル艦隊」の不可解な動きにあった。
「荒れ狂う嵐の夜、視界ゼロの海域を、貴公の艦隊は灯火もつけずに全速力で駆け抜けたという。挙句、封鎖網の死角を正確に突き、英国艦隊へ奇襲をかけた……。常人の航法ではない。これではまるで、闇を見通す目を持っているかのようだ」
エスカニョの隣に座る提督ディエゴも、不快感を隠さず身を乗り出す。
「しかもなんだ。出航準備の最中、貴公らの船からは陽気な歌さえ聞こえてくるというではないか。……シャルル提督、これは一体どういうことだ。死地に赴く我々を、フランス流の冗談で愚弄しているのか?」
その問いに、仮面を被り、研ぎ澄まされた刃のような冷徹さを纏うシャルルが、軍人の瞳を向けた。
その隣では、護衛のアドリアンが彫像のように立ち、猛獣のごとき殺気を周囲に振りまいている。
「我が艦隊の航法が正確なのは、軍紀が厳正であること。……そしてこの街、カディスの民が熱狂をもって迎えた、勝利を約束する『導き手』がいるからです」
シャルルはあえて尊大に、そして陶酔を含んだような響きで言葉を継いだ。
「先の夜会で、貴公らもその姿を目にしたはずだ。今や港の酒場から広場の隅々に至るまで、民は彼女を『勝利の女神』と呼び、我ら連合艦隊の救済を願って祈りを捧げている。……ただ、それだけのこと」
シャルルは短く、突き放すように答えた。
「……フン、噂の『女神』か。その小娘が馬車で通り過ぎるだけで、飢えた民が涙を流してひざまずき、兵たちが熱狂のあまり軍歌を合唱したという。だがシャルル提督……貴公は正気か? 聖母への冒涜に他ならん。私には、その娘が飢えた水兵を惑わし、艦隊を破滅へ導く不吉な魔女にしか見えんのだ」
ディエゴは冷ややかな視線がシャルルとアドリアンをを貫く。
その瞬間、アドリアンの眉間が険しく歪んだ。
(……ナギサは魔女ではない。女神だの魔女だのという偶像崇拝に怯える、ただの女性だ)
アドリアンの全身から、物理的な重圧を伴うほどの殺気が漏れ出す。
右手が無意識に腰の剣の柄へと伸びたが、シャルルの白い手が、それを無言で制した。
「……ディエゴ提督。不吉、ですか」
シャルルは低く、地を這うような声で言った。
ディエゴは一瞬、言葉を詰まらせた。
確かに、あの夜会の熱狂は凄まじかった。
「そ、それは……確かにあの場には、何らかの高揚があった。だが、一晩明ければ冷静にもなる。海を知らぬ小娘一人に全軍の命運を預けるなど、正気の沙汰ではない!」
シャルルはふっと、仮面の下で冷ややかな笑みを漏らした。
「今さら何を言う。……あの狂乱の七日間、誰よりも彼女に縋り付いていたのは、他ならぬ貴公らではなかったか?」
「なっ……!」
「忘れたとは言わせない。恐怖で顔面蒼白になり、指先まで震えている彼女の足元に、貴公らは獣のように群がった。一人がその手を掴めば、我先にと他の者も縋り付く。彼女の手の甲に、指の一本一本に、執拗に唇を押し付けていた。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、幼児のように救いを乞い願う貴公らの唾液で、彼女の皮膚は赤く腫れ上がっていた。あの悍ましい光景は、私やアドリアンの脳裏に焼き付いて離れない」
シャルルの言葉に、会議室の温度が数度下がった。
提督たちは、思い出したくもない自身の醜態――
極限の死恐怖から逃れるために、一人の少女を偶像のように扱い、狂信的に崇め奉った七日間の記憶を突きつけられ、顔を強張らせた。
さきほどまで机を叩いて吠えていたディエゴ提督は、顔を真っ赤にしたまま、みるみるうちに肩をすぼめ、**シュン……**と音がしそうなほど小さくなった。
「民が熱狂すれば神輿を担ぎ、少しでも熱が冷めれば魔女と罵る。貴公らの信仰とは、その程度の便宜的なものか? 少なくともガディスの民は、今この瞬間も彼女を信じて、空になったはずの貯蔵庫から兵たちのために食料を差し出している。彼女に疑念を抱くということは、貴公らを支える民の献身をも否定するということだ」
「それは……しかし……」
シャルルの言葉は、提督たちが抱く「自分たちも熱狂してしまった」という恥部を正確に抉っていた。
「言いよどむ必要はない。我々が彼女を『女神』とするのではない。彼女がもたらす結果が、彼女を『女神』たらしめるのだ」
シャルルが冷酷なまでに言い切ると、沈黙が軍議の場を支配した。
その絶妙なタイミングで、軍医ジャンが「レモンジュース」と「翡翠の宝石箱」―色鮮やかな野菜をハチミツとビネガーで漬け込んだ保存食を運び込んだ。
ディエゴ提督は、「毒見だ」と吐き捨て、震える手でそれを口にする。
「……っ!?」
次の瞬間、ディエゴの表情から険しさが消えた。
イギリス軍が極秘裏に壊血病対策として使い始めているレモンジュースが、なぜここにあるのか。
それだけではない。
自分たちの備蓄している、ただ酸っぱいだけで食えたものではない酢漬けとは根本から違う。
シャキシャキとした食感、鼻を抜けるビネガーの刺激、そしてそれを包み込むハチミツの甘美な香り。
それは、死を待つばかりの兵たちの胃袋を温め、命を呼び覚ます「生の味」だった。
更に、松の葉で作ったソーダに、甘酢を割る。
真水で作ったシャンパンの様な飲み物に皆が息を飲む。
野菜から染み出た大地の恵みを余すことなく取り入れることができるのだとジャンが説明する。
「……これだ。私が求めていたのは、空虚な精神論ではない」
フランス軍総司令官ヴィルヌーヴが立ち上がり、瓶を掲げた。
「シャルル提督、貴公に感謝する。このレシピを、我が艦にも共有してほしい。……諸君! 我々はもはや、飢えに怯える敗残兵ではない! 英国海軍が独占していた命の糧を、我らは手に入れたのだ!」
歓声が湧き起こる。
それまで一人の風変わりな提督に過ぎなかったシャルルに対し、各国の提督たちが一斉に敬意を込めた眼差しを向けた。
アドリアンは、その熱狂の中心にいるシャルルの背中を見つめていた。
(これが、シャルルの戦い方か……)
剣を振るう自分とは違う、残酷なまでに高貴な守り。
シャルルは渚を「女神」という全軍の希望へ祭り上げることで、全提督を渚の護衛官へと変えてしまったのだ。
守るべき少女が、歴史を逆流させるほどの巨大な存在へと変貌していく。
アドリアンは、その眩しさと、いつか手が届かなくなるような一抹の不安に、拳を震わせるしかなかった。




