第29話:翡翠の宝石箱と太陽の欠片
停泊中、次の出航まであと一週間。艦内の準備はいよいよ大詰めを迎えていた。
「……おい、ナギ。お前のせいで、転職したことになってるんだが」
目の下に深い隈を作った軍医ジャンが、調理場の大鍋の前で絶望の声を上げた。
「ご…ごめんなさい」
渚がもたらした未来の知恵――「ハッカの歯磨き粉」と「レモンジュース」の量産に忙殺されたジャンは、恨みがましく渚を睨みつける。
(こ、怖いっ)
その疲弊ぶりを見かねたシャルルが、「馴染みの調理長ベルーナ」を紹介したことで、事態は新たな局面を迎えていた。
紹介されたテオドールは、最初は不機嫌そのものだった。
出航前の多忙な時期に、レモンジュースなどという手間のかかる「面倒事」を持ち込んだ渚を「お嬢ちゃん」と侮っていたのだ。
しかし、渚が語る「壊血病を防ぐための論理的な説明」と、実際に口にしたレモンジュースの驚くべき味わい。
さらには徹底した衛生管理を目の当たりにし、テオドールはそのプロ意識に目を見張る。
「こんなやり方があるなんてな…」
彼はついに、自らの聖域である大鍋と部下たちの指揮権を渚に委ねることを決意した。
渚は、ヨットで世界一周するために学んでいたサバイバル知識と、お母さんから受け継いだ生活の知恵をフル稼働させた。
1. 衛生管理と「煮沸」の儀式
テオドールの部下が買い出しを行い、ガディスの市場から届いた鮮やかな野菜が山のように積み上げられた。
渚はまず、大きな鍋に湯を沸かし、大量のガラス瓶を次々と放り込んでいく。
「お嬢ちゃん、何をしてるんだ? 瓶を茹でてどうする」
「テオドールさん、これは煮沸消毒。目に見えない菌を殺して、長期航海でも腐らないようにするための『魔法』だよ」
ヨットの上で学んだ、失敗の許されない保存食作りの鉄則。
渚の揺るぎない手つきと、科学的な根拠に基づく指示に、テオドールは口を挟むのを止めた。
2. 翡翠を詰める宝石箱
次に渚は、野菜を容器のサイズに合わせ、手際よく切り揃えるよう指示を出した。
大地を象徴する赤パプリカ、瑞々しいキュウリ、太陽のような人参、そして地中海沿岸で愛される赤玉ねぎやカリフラワー。
レモンジュース作りで余ったジンジャーの皮、レモンの皮、唐辛子、さらに買い足した蜂蜜とビネガーを使い、巨大な鍋で「甘酢(ピクルス液)」を作り上げる。
煮沸したての瓶に野菜を隙間なく詰め込み、大鍋でグラグラと沸いた熱いままの甘酢を、溢れんばかりに注ぎ込んだ。
「熱いうちに蓋をして密封するのがコツなの。冷める時に中が真空になって、鮮度が閉じ込められるんだから」
渚の説明を聞きながら、テオドールの驚きは次第に信頼の眼差しへと変わっていった。瓶の中で輝く野菜は、まるで翡翠や紅玉を詰め込んだ宝石箱のようだった。
3. 「ゴミ」に宿るお母さんの魔法
調理が進むにつれ、大量の人参の皮やキャベツの外葉が「ゴミ」として捨てられそうになる。そこで渚が鋭い声を上げた。
「待って! それ、捨てちゃダメです!」
「こんなゴミをどうするってんだ!」
「ゴミじゃないです! 立派な栄養……いえ、大地から吸い上げた生命力の源なんです。根菜は皮の近くにこそ、一番の力が詰まってるんですよ」
「だがよ……、こんなゴミを提督や士官たちが食うわけがないだろう」
「大丈夫です。そこは私に任せてください」
自信溢れる渚に、もはやテオドールも挟む口はない。
渚は部下たちを指揮し、野菜くずを細かく刻ませると、甲板の陽光の下に並べさせた。
「お日様に当てれば、お野菜はもっと甘くなるんだよ」というお母さんの教え。
そして、ヨット乗りとして学んだ「軽量で腐らず、旨味が凝縮される」ドライベジタブル(干し野菜)への変貌。
「これを、飲んでみてください」
数日後、その干し野菜から取ったスープの深いコクを口にしたテオドールは、絶句した。
「あんたは……ただの小娘じゃない。海で生き抜く術を知る、本物の船乗りだ」
深く頭を垂れ、渚をプロとして認めた。
完成した「甘酢漬け」と「干し野菜スープ」の検分に訪れたアドリアンは、その機能美に感嘆の息を漏らす。
「ナギサ……君は、この大地と太陽を、この小さな瓶に閉じ込めてしまったのだな。……これこそが、封鎖を打ち破る我らの『糧』だ」
(感想が詩人みたい…。気に入ったってことだよね?)
当時、イギリス海軍が軍事機密として独占し、フランスを封鎖していたレモンジュース。
それを凌駕する、美しくも力強い保存食の数々。
シャルルもまた、宝石のように輝くシャキシャキの甘酢漬けを頬張り、満足げに微笑んでいる。
地獄のような海の上で、かつてない活力を得た軍人たちは、自分たちの「女神」がもたらした奇跡を胸に、静かに抜錨の時を待つのであった。




