第28話:黄金の滴と生きている水 ― 封鎖を越えるレモン ―
「……痛い! こんなのいらない!」
ピエールの叫びとともに、床に転がった白い瓶を見つめ、渚は肩を落とした。
現代の「清潔」を押し付けようとした傲慢さが、小さな少年の敏感な口内を焼いてしまったのだ。
(良かれと思ってしたことが、あの子を傷つけちゃうなんて……。このままじゃ終われない)
渚は顔を上げ、執務室へと向かった。
そこには、渚が作ったハッカの「魔法の粉」で、かつてない清涼感と清潔な歯を手に入れ、たいそう満足していたアドリアンがいた。
「アドリアン。先ほどの歯磨き粉、お気に召したようですね?」
アドリアンは冷徹な軍人の顔を崩さなかったが、その瞳には満足の色があった。
「……ああ。あれほどのものは体感したことがない。ジャンに量産を命じたところだ」
「なら、お礼をしてください。あの粉を差し上げた『借り』、今すぐ返していただきます。私をガディスの街へ連れて行ってください。ピエールへのお詫びするための材料を買いに行きたいんです!」
「……ピエール。お前に懐いている火薬運びか」
アドリアンは意外そうに、あるいは不機嫌そうに眉を上げた。自分以外の、それも年端もいかぬ少年のために街へ出たいというナギサの言葉に、わずかな独占欲が疼いたのかもしれない。だが、渚の目にある強い意志を見て、薄く唇の端を上げた。
「……貸し借りか。いいだろう。ナギサの望み通りに」
ガディスの街へ降り立つ渚は、大きなマントで身を包み、帽子を深く被った男装の姿だった。
しかし、隣を歩くアドリアンの警戒心は尋常ではなかった。
「……離れるな。私の影から出ることは許さん」
人混みの激しい市場。
荒くれ者や荷運びの男たちが渚の側を通り過ぎようとするたび、アドリアンの動きが鋭くなる。
向こうから来た男と肩が触れそうになった瞬間、アドリアンの強い腕が渚の肩を引き寄せた。
「無防備すぎる。前を見ろ」
アドリアンは渚の肩を抱き寄せたまま、自身の体に密着させて歩き始めた。
男装した渚の細い体が、アドリアンの重厚な軍服と硬い胸板にすっぽりと埋まる。
アドリアンは周囲の男たちへ、獲物を守る猛獣のような氷の眼光を向けていた。
渚はアドリアンに買ってほしい材料を耳打ちする。市場の露店で、太陽のようなレモン、上質な蜂蜜、ブランデーに加え、乾燥したジンジャーと、燃えるように赤い唐辛子、そして薬草のレモンバームを大量に買い込んだ。
市場を歩く二人の足が、一軒の高級な細工物屋の前で止まった。
「……ナギサ。あの粉の礼だ。選べ」
アドリアンが示したのは、ベルベットの敷物の上に並べられた、美しい**「歯ブラシ」**でした。
アドリアンは、渚の細い指先に似合う、小ぶりで優美な象牙の持ち手の歯ブラシを手に取らせました。
「これ……すごく高いんじゃ……」
「黙って受け取れ。……お前の知識の礼には、これでも安すぎるくらいだ」
アドリアンは、渚の手を包み込むようにしてその歯ブラシを握らせました。
先ほどまでの周囲の荒くれ者たちを牽制する鋭い視線とは違い、渚の手に触れるその熱は、驚くほど慎重で優しさに満ちていた。
「ありがとう…。大切にします。」
市場の裏通り。
捨てられた松の葉を拾おうとする渚を、アドリアンは止めました。
「そんなゴミを拾ってどうする」と。
しかし、渚の真っ直ぐな瞳に押し切られ、二人はガディス郊外の松林が広がる丘へと馬を走らせました。
「……ナギサ。なぜ、カゴを持って松の葉を毟っている?」
豪華な刺繍が施された軍服を纏ったまま、アドリアンは困惑した表情で、渚に渡された編みカゴを持っています。
対する渚は、裾をまくり上げ、慣れた手つきで松の枝を選別していました。
船に戻った渚が向かったのは、ジャンの医務室だった。
そこにはアドリアンと、主であるジャン、そして何事かと様子を伺う他の軍医たちが集まっていた。
ジャンはまた余計な仕事を増やすであろう渚の申し出に怪訝な顔をしつつも、どこかワクワクしている様子だ。
「……ナギ、ここでまた何か面倒事を作るのか?」
ジャンが毒づきながらも、薬を煎じるための真鍮製アルコールコンロに火をかける。
青白い炎が小さな薬缶を炙り始めた。
渚は手際よくジャンやその場にいる軍医に指示をした。レモンを絞り、その果汁にたっぷりの蜂蜜と強い酒、ジンジャーを加え、コンロでじっくりと煮詰めていく。
やがて、シナモンとジンジャーのスパイシーな香りが、血と硝煙の匂いが染み付いた医務室の空気を一変させた。
煮沸し冷ました真水に蜂蜜を加え、松の葉と新鮮なレモンバームの葉を足して、煮沸したガラスの瓶に注いだ。
そしてコルク栓を叩き込み、紐で固く縛って密封した。
「これを三日間、絶対に開けずにこの部屋の暖かい場所に置いておいてください」
二日目には銀の糸のような気泡が上がり始め、三日目には内側からの圧力で紐が今にも弾けそうに張り詰めていた。
ジャンがコルクを慎重に回した瞬間――。
――シュッ!!
「なっ……!?」
「水が、弾けたのか!?」
軽快な音が響き、瓶の中で踊る泡に、その場の男たちは魔法を目撃したかのように硬直した。
「これは何だ?」
水がシャンパンのようにはじける様に驚き沸き立つ。
ジャンの問いに、渚は松の葉についている、酵母菌の発酵だと平然と説明する。
歴史を変えうる、未知の知識をあっけらかんと当たり前のごとく言いのける渚に、医療の探求をするジャンは背徳感のようなゾクゾクとした思いがこみ上げる。
渚はまず、先につくっておいたいくつかのシロップを用意する。香辛料を抜いた優しい味のものをその炭酸水で割り、ピエールに届けた。
「ピエール、今度は痛くないよ。飲んでみて?」
「……しゅわしゅわする! 甘くて美味しい! 魔法の飲み物だ!ナギ様、これすごいよ!」
そして多めに用意しておいた、それを他のモンキーパウダーの少年にも分け与えた。
笑顔を取り戻させ安堵した渚は、医務室に戻り、「大人用」の仕上げにかかる。
ジンジャーと唐辛子を効かせた特製シロップをカップに注ぎ、コンロで沸かしたばかりの熱い湯を勢いよく注いだ。**「大人用ホットレモンジンジャー」**の完成だ。
立ち上る湯気とともに、スパイスの香りを一気に医務室に充満する。
それを口に含んだ瞬間、男たちの空気が一変した。
熱い刺激の後に、ジンジャーと唐辛子の鋭い刺激が喉を焼き、体の芯から強烈な熱が立ち上る。
「……っ、これは、熱いな……。だが、全身の血が騒ぎ出すようだ」
アドリアンの端正な顔が朱に染まり、瞳には濡れたような熱が宿る。
自分をまっすぐに見つめる渚に向けられたその視線は、熱気にあてられたように艶然としており、渚は思わず目を逸らした。
(――どうしよう、やりすぎちゃった!?)
渚は内心で激しく動揺していた。
現代では、ジンジャーや唐辛子は冷え性の改善やリラクゼーション、あるいはデトックスのための、ごく一般的な健康素材だ。
けれど、ここは娯楽も刺激も乏しい1803年の軍艦。
ただでさえ貴重な糖分(蜂蜜)と酒、そこに強烈なスパイスの掛け合わし、あろうことか熱いお湯で割ってしまったのだ。
渚にとっては「冷え性の改善」のつもりでも、この時代の屈強な軍人にとっては、それはまるで魂を揺さぶり、本能を呼び覚ます「媚薬」に近い劇薬となってしまったらしい。
「ナギ……お前は、これはどういうつもりだ」
媚薬を飲まされたかのように、喉を震わせて囁くアドリアンの声は、いつもの冷徹な響きとは異なり、熱を孕んで低く甘い。その視線に射抜かれた渚は、顔が火を噴くほど赤くなるのを感じ、逃げるように次のカップへお湯を注いだ。
だが、物語は美談だけでは終わらなかった。
「……おい、ナギ。お前のせいで、転職したことになってるんだが」
数日後、ジャンが目の下に深い隈を作って現れた。
彼は軍服の袖をまくり上げ、エプロン代わりの布を腰に巻き、手には巨大な木べらを持っている。
その姿は軍医というより、完全に年季の入った調理人のそれだった。
「提督たちは『定期的にレモンシロップを量産しろ』と命令するし……。おかげで俺は医務室を追い出されて、一日中厨房の大鍋と睨めっこだ。俺たちは軍医だぞ! 貴重なアルコールコンロは取り上げられ、煤まみれになって大鍋をかき回し、歯磨き粉屋兼、レモンジュース屋兼、糧食係だ!」
恨みがましい視線を向けながらも、ジャンは正確な比率でスパイスを砕き、お湯を沸かし続ける。
だが、これはジャンにとっても、船員にとっても、大きな希望だった。
当時、レモンジュースはイギリス海軍が壊血病を防ぐための「軍事機密」として独占し、フランスを封鎖していたのだ。
それを、ただのハーブと渚の知識だけで、さらに美味しく再現してしまったのだから。
地獄のような海の上で、今夜も爽やかなミントと、熱く火照るレモンの香りが、軍医たちの嘆きとともに医務室を満たしていた。




