第27話:ミントの航跡 ― 泥のパンと提督の白磁 ―
カディス港の豪華なパーティーから数日。
「……ピエール、これ。内緒だよ?」
湯浴みのお礼に、渚はジャンからの口添えで料理長から特別に分けてもらった「まともなパン」をピエールに手渡した。
「ナギ様はやっぱり、女の子だったんだね」
とピエールが笑う。
渚も無理して男言葉を使ってピエールと会話していた日を思い出し、はにかむ。
やはり無理があったか、と。
だが、共に食べようとそれを割った瞬間、渚の時は止まった。
断面から這い出したのは、数匹のコクゾウムシ。
(……う、げっ……おえっ……!)
込み上げる吐き気。
耐えきれず、渚は口元を押さえて蹲った。
脳裏にカディスで食べた甘い果実の味が蘇り、目の前の「現実」との落差に眩暈がする。
「ナギ様!? 大丈夫? ……これくらいの虫なら、パンの穴に指を突っ込んで引っ張り出せば平気だよ。ほら、見てて」
ピエールは心配そうに渚の背中をさすりながら、手慣れた手つきでパンの中の虫を掻き出した。
彼にとって、これは「食事の前の儀式」に過ぎない。
「……ピエール、あなた、いつもこんなのを食べてるの?」
渚が声を震わせて尋ねる。
停泊中は新鮮な虫のつかないパンを水夫ですら食べる機会だ。
なのに末端である彼らはその機会もないのだ。
自分は提督たちの私室で、清潔な皿に盛られた食事を与えられていた。
それが、この船の「普通」だと思い込もうとしていた。
だから、この船の末端を支える子供たちは、虫のわいている少しまともなパンを「ご馳走」として受け取って喜んでいる。
「これはマシな方だよ! いつもはもっと虫がいて、最悪な時は中が全部青カビだもん。……ナギ様がくれたパン、すごくいい匂いがするよ。……いただきます!」
ピエールが、虫を払っただけのパンを幸せそうに頬張る。
その姿を見て、渚は激しい自己嫌悪に襲われた。
(私が知っている歴史には、水兵の食事なんて一行も書いてなかった……。この子たちは毎日、これよりひどいパンを食べているんだ……)
渚は、自分の口内を支配する不快感と、この世界の不条理を洗い流したくて堪らなくなった。
「……ピエール。明日、またここに来て。……もっといいもの、ううん。せめて、口の中だけでもマシになれるものを持ってくるから」
「え? なにそれ?」
「……『魔法の粉』……かな?」
渚の瞳には、先ほどまでの怯えではなく、強い決意が宿っていた。
ジャンの医学知識と、自分の現代知識。
その二つを掛け合わせて、この不潔極まりない日常に「清潔」という名の反逆を企てる。
渚は指に塩をつけ、糸をフロスにして現代の習慣を死守していたが、爽快感には程遠い。
現代の記憶にある「ミント」を求め、彼女は軍医ジャンを頼った。
出航準備で殺気立つ船内。
ジャンは医療品の補充という名目で、マントで身を隠し、再び男装で身を偽った渚を連れ出し、カディスの街へ繰り出した。
「……いいか。お前は女神として顔が割れてる。しっかりとマントで頭を隠せ」
忙しく指揮を執るアドリアンと、私室で真面目に執務中のシャルルの目を盗み、二人は薬草商の露店へ。
渚がジャンの袖をひき、店先に並ぶハッカ油を指差す。
ジャンはハッカ油を手に取ると、包帯一巻き分以上の値を叩いて貴重な「ハッカ油」を買い取った。
船に戻った二人は、密かに医務室に籠もった。
ジャンが用意した炭酸カルシウム(白亜)と重曹、そして琥珀色のハッカ油。
「比率はこれくらいか?」
「ええ、粘度はこれで丁度いいわ!」
二人の指先が白い粉の中で重なり、1803年には存在しない「天国の香り」を湛えたペーストが完成した。
何かも分からないそのペーストに、医療を生業とするジャンは心が躍った。
二人が指につけて磨くと、現代のものには到底及ばないものの、その爽快感に**陶酔**し、ジャンは感動すら覚えた。
渚は完成した「魔法の粉」を手に、真っ先にピエールの元へ走った。
「ピエール、これ! 口の中がスッキリする魔法の粉だよ!」
だが、ピエールがそれを口に含んだ瞬間、顔は苦痛に歪んだ。
「……痛い! 痛いよナギ様!! ……ひどいよ、美味しいものだと思ったのに。こんな口が痛くなる変な粉なんていらない!」
現代の強烈なミントの刺激は、彼にとって「清涼」ではなく「毒」でしかなかった。
ピエールは粉を吐き出し、逃げるように去っていった。
呆然とする渚に、ジャンは冷めた声をかけた。
「……あいつには早すぎたが、この価値がわかる『贅沢者』なら、すぐそこにいるだろ」
二人は、象牙の歯ブラシを手に、執務の合間の休息をとっていたアドリアンとシャルルの元を訪れた。
渚が差し出した白い瓶。
おぞおぞと口に含んだアドリアンは、その瞬間に瞳を見開いた。
「…………なんだ、 これは……?」
馬の毛のブラシを使い、すでに「磨く」習慣のあった二人に、この粉は革命をもたらした。
「ジャン、これは軍事機密だ。今後、私とシャルル様の分を毎日欠かさず用意しろ」
アドリアンの合理的な判断に、ジャンは肩をすくめてニヤリと笑った。
それ以来、夜な夜な医務室で怪しげな白い粉を練り上げるのが、軍医ジャンの日課となった。
「……ったく、俺は軍医だぞ。提督専用の歯磨き粉職人じゃねえんだ」
毒づきながらも、ジャンは正確な比率でハッカ油を落とす。
その横で、渚は満足げに彼の手元を見つめていた。
「今夜は爽やかな眠りにつけそうだわ」
アドリアンから受け取った歯磨き粉を使った、シャルルの満足そうな顔が鏡に映り、地獄のような海の上で、そこだけがミントの香りに守られた、不思議な聖域となっていた。




