第26話:カディス異端審問所
カディス港の喧騒から逃れるように入り組んだ路地、カレ・プロシア。
その一角に建つ異端審問所の石造りの執務室には、潮風の代わりに死のような冷気が満ちていた。
「……その『ナギサ』という小娘を、フランス軍が聖母のごとき女神として崇めているというのか?」
老審問官は、机の上の報告書を忌々しげに指で弾いた。
対峙するのは、フランス貴族リュシアン。
二人の間では、支配階級の共通言語である優雅なフランス語が、毒を含んだ刃のように交わされていた。
「左様。カディス港の祝宴に彼女が現れた際、並み居る貴族や民衆が彼女をどう迎えたか……貴公の耳にも届いているはずだが?」
リュシアンは窓の外、夕闇に沈みゆく港を眺めながら冷ややかに笑った。
「……パリの第一執政閣下が掲げる『理性』とやらは、かくも脆いものだったか。神を否定し、理性を崇めるはずの諸君らが、たった一人の少女に、あろうことかその影に怯えているというのか?」
審問官は椅子に深くのけぞり、喉を震わせて高笑いした。
その笑いは、理性を盾にスペインを野蛮だと見下してきたフランスへの、痛烈な皮肉であった。
「傑作だ! 我々を旧時代の遺物とあざ笑っていたお前たちが、たった一人の少女に無様に振り回されている! 貴公らの誇る鉄の規律も、女神の微笑みの前では形無しというわけだな!」
リュシアンの表情が、一瞬で氷のように凝固した。
だが、彼は動じない。
背後に控えていた東洋人のルカに、静かに目配せをする。
ルカは無言のまま、小振りの袋を机の上に置いた。
鈍い音とともに溢れ出したのは、数枚の、しかし審問官が一生かかっても拝めないほど純度の高い金貨だった。審問官の笑いが、ぴたりと止まった。
「……何の真似だ」
「これは『秩序を維持するための手数料』ですよ、審問官殿」
リュシアンは金貨の一枚を指先で滑らせ、審問官の手元へ届けた。
その金貨の端には、本来ここにあるはずのない、ロンドン塔の鋳造印が微かに刻まれていた。
「貴公が第一執政閣下の理屈に屈したのではない。自らの意志で、この地を乱す不確定要素を引き剥がすと決断するための、ささやかな動機付けです。……あの女を私物化し、女神と崇めて守っている軍人シャルル。彼がその地位を悪用し、この富を独占しているとしたら? それは教会の聖域に対する明白な挑戦ではありませんか?」
金貨を手に取った審問官の瞳に、卑俗な光が宿った。フランスへの反感は、今や「共犯者」としての強欲に上書きされた。
「……なるほど。軍人一人の手に余る『聖遺物』を、正しい場所へ戻すというわけか」
審問官は金貨を懐へしまい込むと、力強く呼び鈴を鳴らした。
「伝令を呼べ! 港に停泊中のシャルルの戦艦へ向かわせるのだ。シャルルに告げろ。今すぐ、彼が船内に匿っている『異端の女』を審問所へ差し出せとな。拒めば、彼はスペインを戦火に売った大逆罪人として、その場で拘束する!」




