第25話:港に捨てられた呪詛
潮風が鉄錆と死の匂いを運ぶ、スペイン・ガディスの港。
行き交う人々は長引く戦火に感情を摩耗させ、ただ足早に通り過ぎていく。そんな沈黙の街に、場違いな絶叫が突き刺さった。
「異端の女を女神などと祭り立て、フランス艦隊は悪魔に魂を売ったのだ! 目を覚ませ! 呪われるぞ!」
薄汚れた貴族服の裾を振り乱し、道行く者の腕を掴もうとしては無残に振り払われる男――リュシアン。
その叫びは救いを求める祈りなどではない。親に捨てられた子供が、構ってほしさに撒き散らす無様な「呪詛」だった。
ルカは、港を見下ろす高台の影から、その喜劇を冷ややかに眺めていた。
(……傑作だ)
三日前、実の父であるシャルル提督から「貴様に与える金など、もう一フランも残っていない」と宣告され、岸壁に放り出された男。ルカの冷徹な知性は、目の前の廃物を瞬時に分析し、その「使い道」を決定する。
(これほど御しやすい駒はない。中身が空っぽであればあるほど、俺の毒は注ぎやすい。)
ルカは顔に、完璧に作り込まれた「聖者の慈愛」を貼り付けた。それは成瀬であった頃、いつか世界を跨ぎ、海を越えた商談を成立させるために死に物狂いで身につけた、他者を懐柔し支配する術だ。かつての夢のために磨いた能力が、今では人を破滅させるための確かな凶器となっている。
ルカは喧騒の中へと優雅に歩み寄り、絶望に震えるリュシアンの肩にそっと手を置いた。
「美しい。その憎悪こそ、今の貴方に相応しい宝物ですよ。……さあ、僕と共に来なさい。お父上を救い、その誇りを取り戻す手段を、僕が用意してあげましょう」
リュシアンにとって、その細く白い手は、地獄の底から差し伸べられた唯一の蜘蛛の糸に見えた。
それからの三日間、リュシアンはガディスの高級ホテルで、夢のような黄金の時間に溺れた。
ルカは惜しみなく金を与え、贅を尽くした暮らしをさせ、彼をさらに堕落させるための女すらあてがった。
「いいですか、リュシアン。君のその『正しさ』だけが、この腐りきった世界を浄化できる。……あぁ、いい子だ。君は何も考えなくていい」
リュシアンより一回りほど年上のルカは、彼にとって理想的な「父性の群像」そのものだった。
ルカは、自らの膝に頭を乗せて甘えるリュシアンの髪を、慈しむように撫でる。だがその内側では、吐き気を催すほどの激しい嫌悪が渦巻いていた。
この三日三晩、安物の娼婦を抱き、言葉の通じぬ彼女たちをフランス語で蹂躙し、卑猥な暴言を吐き続けていたリュシアンの姿。
それは、10年前にルカ自身がフランス革命の混沌の中で受けた、あの悍ましい記憶と鏡合わせのように重なっていた。
(なんて卑しい生き物だ。金と女、そして『全肯定してくれる父親代わり』という安っぽい餌を投げ込むだけで、この男は自分の魂を喜んで差し出す。自分を捨てた父親に縋り付くことしかできない、度し難い家畜……)
「ルカ……。この街の連中はどいつもこいつも無能だ。父上を目覚めさせられるのは、実の息子である私だけなんだ!」
「ええ、その通りです」
神のごとき微笑みを浮かべるルカ。
リュシアンはルカの膝の上で、全能感という名の致死毒に冒されていく。ルカはその背中を優しく撫でながら、薄く、冷たく、唇を歪めた。
四日目の朝。霧深いガディスの石畳を抜け、二人は巨大な石造りの建物の前に立った。
リュシアンはここを「父を救うための聖域」だと信じて疑わなかったが、ルカの瞳に映るのは、史実通りに機能する「効率的な肉体処理場」だった。
重厚な鉄の扉が開き、古びた石とカビの冷気が二人を包み込む。
(……ああ。いつ見てもここは、人間の傲慢さと神の残酷さが美しく結晶している)
「リュシアン様、足元に。ここは『古い罪』が堆積している場所ですから」
内部には、異端者に拷問を加え、ただ自白のみを強要するための沈黙の器具が整然と並んでいた。
喉に布を詰め込み、際限なく水を流し込む「水責め(トルメンタ・デ・アグア)」の台。
関節を無慈悲に脱臼させる「吊り下げ拷問」の滑車。
ここはまだ、中世の闇を色濃く残す、無機質な人間解体場だった。
「見てごらん、リュシアン様。あの奥に審問官たちが座っている。彼らに、君が見た『真実』を伝えるんだ。渚という魔女に惑わされ、軍人の誇りを捨てた提督の姿を。……そうすれば、お父様の魂は、この苦しみから解放される」
(――解放。それは『死』という名の永劫の平穏だ。君が今から吐く言葉が、君の父親にとって致命的な『密告』になるとも知らずにね)
ルカは、リュシアンの背中を優しく、しかし抗いようのない力で押し出した。
(さあ、歌ってごらんなさい。その愚かな声で。父親を断頭台へ、自分自身を生き地獄へ追いやる、最高の賛美歌を。異端者を、女神のように崇めた者たちを、そして……その者を愛した者たちすべてを、地獄へ道連れにするんだ)
(…そして、君。渚も…)
リュシアンは、自分を押し出すルカの手が氷のように冷たいことにも気づかず、朱色の法衣を纏った審問官たちの前へと、誇らしげに踏み出した。




