第24話:黄金の檻と、泥濘の街
ガディスの港から少し離れた海上に、父の旗艦が浮かんでいる。
漆黒のタールで塗られたその船体は、本来なら血のように赤い砲門が並ぶ、暴力的な威圧感の塊のはずだった。
だが、今のリュシアンの目には、それは霧の向こうで青白く発光する、侵しがたい聖域――「白亜の巨船」のように映っていた。
(……わざとだ。わざわざ岸壁を離れて停泊するなど、私を陸地に置き去りにするための拒絶に決まっている。あの場所は、今の私には決して届かない別次元だと思わせるために……)
リュシアンはホテルの部屋で、手近にあった水差しを床に叩きつけた。
「おい! もっとマシなワインを持ってこいと言っているんだ! この……言葉も通じない無能どもめ!」
ベッドには、先ほどまで抱いていた現地の女が、怯えた顔でこちらを見ている。
フランス語での罵倒が通じていないことは明白だった。文明化されたパリの言葉も理解できず、日がな一日教会で祈るか寝ているだけの、野蛮で蒙昧な奴ら。
彼にとってこの街の人間は、人間以下の存在でしかない。
「……ケッ、汚らわしい。父上が、今までのように私に十分な金を与えていれば、こんな女と戯れる必要もなかったんだ」
実際、ガディスに辿り着くまでの道中、リュシアンの懐はとうに底を突いていた。
そんな彼が「ルカ」という名の、あの女神だともてはやされる東洋人と同じく美しく頭の良い男に出会ったのは、わずか三日前のことだ。
その男は、父を惑わしたあの「女神」と同じ血を引いていることは一目で分かった。
だが、あの東洋の小娘が放つ人を狂わせるような底知れない不気味さとは対照的に、ルカには透徹した知性と、こちらの自尊心を絶妙に揺さぶる気品があった。
(……同じ人種だというのに、こうも違うものか)
絶望の淵にいたリュシアンは、その「同じ東洋人」でありながら自分の言葉を理解し、知的に導こうとする男に、瞬く間に心酔していった。
(回想:三日前、ガディス港の岸壁)
「……貴様に与える金など、もう一フランも残っていない」
威厳に満ちた父の冷徹な宣告とともに、リュシアンは荷物一つで岸壁に放り出された。
遠ざかっていくボート。沖合へ向かう漆黒の巨船。
リュシアンは喉が潰れるほど叫び、父への、そして父を奪ったあの女への呪詛を海に向かって吐き続けていた。
金もなく、言葉も通じない異郷の地。誇り高きヴァロアの名が、泥にまみれようとしていたその時。
「……美しい。その憎悪こそ、貴方に相応しい宝物だ」
背後から響いた完璧なフランス語。振り返ると、霧の中から一人の男が静かに現れた。
男は戸惑う周囲の人たちを鋭いスペイン語で追い散らすと、リュシアンの汚れを払うように、自身の高価なハンカチを差し出した。
「お困りのようですね。……提督は、あの小娘に『毒』を盛られた。だから貴方を捨てたのですよ。私と共に来なさい。父上を救う手段を、私が用意しましょう」
ルカは蛇のような細い目で、沖合の艦隊を見つめた。
「私は三週間前のあのパーティーを、この目で見ておりました。……見るに堪えない光景でしたよ。あの小娘を『女神』と崇め奉り、跪く兵士たち。そして何より、威厳も、誇りも、フランス軍人としての魂さえも投げ出し、あの女に盲従するシャルル提督の姿を。今のあの船に、かつての高潔な父上の面影など、どこにも残っていない」
リュシアンの胸に、冷たい怒りが火のように広がった。
自分が見ていない場所で、父が、そしてフランス軍が、あの東洋の小娘一人に汚染されていたという事実。
絶望の淵にいたリュシアンにとって、その手は地獄から差し伸べられた蜘蛛の糸だった。
(現在:ガディスの高級ホテル)
「リュシアン様。あまり声を荒らげると、せっかくの貴族の気品が台無しですよ」
影の中からルカが現れ、新しいワインを置く。あの日から三日、ルカはリュシアンの「全能感」を金と言葉で繋ぎ止めていた。
「ルカ……。この街の連中は、どいつもこいつも呪文のような言葉を並べおって。異端審問所はどこだ? さっさと案内しろ」
「焦ってはいけません。……あのナギサという女が現れてから、提督はますます常軌を逸している。あの女は、色香か、あるいはもっと忌まわしい何かで、提督を完全に支配しています」
「……確かに。父上はあの日、私の顔を見ようともしなかった」
リュシアンの手が、怒りで震える。金も権力も、父の関心さえも、あの魔女に奪われた。
「父上を目覚めさせられるのは、実の息子である私だけだ!」
「ええ。ですから、我々が『救う』のです。……参りましょう。私なら、神の代理人たちと話ができます」
リュシアンは、ルカが差し出した手の冷たさに気づくことなく、霧の立ち込めるガディスの街へと踏み出した。
(待っていてください、父上。私が、すべてを正してやる。……あの女を、私のパパの横から引きずり下ろしてやる)




