第23話:乙女の祈りと、泥濘のリアリズム
「ジャン! 大変だ、ナギサの腕が……! リュシアンに折られたかもしれない!」
アドリアンに半ば抱えられるようにして医務室へ運び込まれた渚は、ベッドに腰を下ろすなり、心配でオロオロする彼を横目に絶叫した。
「そんなことよりジャンも聞いた!? あの金髪の男、シャルル様のこと『パパ』って呼んだよね! パパって!!」
薬棚から瓶を取り出していたジャンが、死んだ魚のような目でこちらを振り返る。
彼の手元にあるのは、重傷者用のメスでも添え木でもなく、ただの痣の薬だ。
「……折れてない。アドリアン、お前軍人だろう。どう見てもただの痣だ。少しは冷静になれ。ナギも少し慎め、耳に響く……」
ジャンの冷たい視線が渚とアドリアンを射抜くが、当の本人はそれどころではない。
「だがジャン、あの凄まじい音を聞かなかったのか!? ぎりりと、今にも砕けそうな……!」
「それはお前の心音か、向こうの石畳を叩く馬蹄の音だろう。いいから少し離れろ、診察の邪魔だ」
「痣はどうでもいいの! シャルル様、結婚してたの!? 子供いたの!? しかもあんなにデカいのが!?」
私は、自分と同い年に見えた男の存在に驚ききっている。
「ナギサ……? 腕の痛みよりも、そこなのか?」
アドリアンが、何を言ってるんだと言わんばかりに目を丸くし、私をまじまじと見つめる。
「シャルルが結婚しているのは……まあ、あの家格なら当然というか。私はてっきり、君も知っているものだと……」
「だって『おねぇ』じゃない! お姉様の魂を宿して海へ行く乙女(?)じゃなかったの!? 既婚者で子持ちのパパなんて、そんな急な設定が出てくるなんて!!」
二人は『おねぇ』という聞き慣れない言葉に一瞬目を合わせるが、「まあ、あれのことだろう」と察したように納得する。
頭を抱えてのけ反る私を、アドリアンが慌てて支えた。
「落ち着いてくれ、ナギサ! そんなに興奮したら血が回って痣の腫れが酷くなる。少し冷静に……!」
だが、ジャンは私の言葉に冷やかな鼻笑いを投げ、鼻を突くような酸っぱい匂いのする液に布を浸すと、それを私の腕に容赦なく押し当てた。
「ひゃっ、冷たい……! しかもこれ、何の匂い?」
「酢と薬草を混ぜたものだ。腫れを引かせるにはこれが一番いい。」
「……お前、シャルルを妖精か何かだと思っていたのか。彼は名門ヴァロアの当主だぞ。貴族が十代で政略結婚して、速やかに『跡継ぎ』を作る。それは食事をするのと同じくらい当然の『義務』だ」
ジャンの淡々とした言葉が、私の現代的な倫理観をメキメキと踏み潰していく。
「義務って……そんな生々しい……」
「魂が宿っているのか知らんが、体は健康な男だからな。……もっとも、あの息子に関しては、シャルルの血は一滴も流れていないがな」
「えっ!? !?」
本日二度目の絶叫。ジャンは耳を塞ぎながら、吐き捨てるように続けた。
「見目で分からんか? シャルルとは似ても似つかんだろう。魂の卑しさも、あの下卑た顔の造作も、……全く、別の生き物だ」
ジャンの毒の強さに、一瞬医務室の空気が凍る。
「認めたら家名の恥だからな。シャルルは自分を裏切った妻の息子を、家を守るために『自分の子』として公認し、せっせと生活費を送り続けているんだ。それが彼の背負っている、お前の言う『おねぇ』という仮面の裏側にある地獄だよ」
アドリアンも自嘲気味に目を伏せ、私の腕を支える手に力を込めた。
「……ジャンの言い方は酷いが、それが現実だ。ナギサ、私の家とて似たようなものだった。貴族の婚姻とは、血筋という資産を管理するための『契約』に過ぎない。そこに愛があるか否かなど、誰も問いはしないのだよ。だから、どうかシャルルを責めないでやってほしい。彼はその歪んだ契約のすべてを背負い、家名を泥にまみれさせぬために、この海で戦い続けているのだから」
「でも、あいつ『異端審問』とか言ってた……」
私はアドリアンをすがるような目で見つめる。不安に震える私の肩を、彼は優しく掴んだ。
「安心しろ、ナギサ。さっきも言った通り、ボナパルトの『法典』の下では、魔女狩りなんて野蛮な真似は許されない。法が君を守る」
だが、ジャンはその言葉を鼻で笑った。
「おめでたいな、アドリアン。ボナパルトは神を信じちゃいないが、民衆を操るために教会を政治の道具として利用している男だ。もしこの『予言』が的中させる女が政治的に邪魔になれば、彼は平気でお前を異端者として差し出すぞ」
ジャンの指先が、私の鼻先を鋭く指した。
「いいかナギサ。お前が信じていいのは、シャルルの孤独が詰まったこの鉄の檻の中だけだ。一歩降りれば、そこは蒙昧な因習と魔女狩りの火種がくすぶる、暗黒の時代と地続きの世界だと思え。特に今のガディスは危険だ。まだ唯一、異端審問所が残されているからな!」
湿布薬の冷たさが、じわじわと腕の熱を奪っていく。
私は、自分が今どこに立っているのかを、本当の意味で思い知らされた。
英雄たちの華やかな仮面の下には、崩壊した家庭と、神を道具にする独裁者の影。
私が知っている「歴史」の裏側は、教科書よりもずっと、泥臭くて残酷な場所だった。




