第22話:黄金の鎖と鉄の仮面
ガディスに停泊して、今日でちょうど三週間になる。
最初の七日間は、戦勝の熱狂の中にいた。シャルルは優雅に肩を揺らした。
次の七日間は、火薬の匂いと鉄の音に支配された。
船体の修理が進み、大量の食料と砲弾が積み込まれる。
そして最後の七日間。
出撃の準備は整い、二十一日目の早朝、「……錨を上げろ」というシャルルの低い声が響いたその時だった。
港の石畳を、狂ったような馬蹄の音が叩いた。
霧の中から飛び出してきたのは、泥と砂埃にまみれた一台の豪華な馬車。
パリから二千キロ。ピレネーを越え、野盗の潜む荒野を、馬を何頭も潰して駆け抜けてきた――ただ「金の無心」という執着だけで。
馬車から転がり出た青年、リュシアン=アンリ・ド・ヴァロア・ド・サヴォワは、タラップを駆け上がるなり、私の腕を乱暴に掴み上げた。
「これか! フランス中で噂になっている、パパが手に入れたという『戦果の女神』は!」
ぎりりと骨が鳴るほどの力。
リュシアンの目は血走り、旅の狂気と強欲で濁っている。彼は渚を人間としてではなく、借金を帳消しにするための「高価な宝飾品」を見る目で、雑に引き寄せた。
「パリ中がこの噂で持ち切りですよ、パパ! どんな敵も退ける東洋の女神を連れているとね。母上も言っていました、『そんなに価値のあるものなら、早くこちらへ送れ』と! さあ、こいつを早くパリへ! 第一執政閣下に献上して得られる報奨金があれば、僕の借金なんて端金だ!」
「……離して、痛い……!」
(怖いっ!)
渚が身をよじっても、リュシアンは笑いながらさらに力を込める。助けを求めて振り返った私の視界で、シャルルの横顔が凍りついた。
霧の向こうから聞こえてきたその声に、シャルルの胃の底が焼けるような不快感に襲われた。
もうすぐ二十歳を迎える、賭博と女に溺れ、家の財産を食い潰している男が、海風にさらされた軍艦の上で、幼児のように「パパ」と呼ぶ。
その響きに含まれているのは、親への愛ではない。「僕を救うのはあなたの義務でしょう?」という、傲慢なまでの依存と甘えだ。
(……やめてくれ。その口で、私を呼ぶな)
かつて、彼がまだ小さかった頃。
彼を家督を継ぐ息子と甘やかし愛を注いだ事もある。
だが今の彼にとって、シャルルは「パパ」という名の巨大な財布、あるいは「ヴァロア」という名の金を生み出す看板に過ぎない。
渚を掴むその汚れた手。その指の形、下卑た笑い方、そして何よりその魂の卑しさ。
シャルルとは、容姿も性格も、そして貴族としての誇りさえも、何一つとして似ていない。
それが妻の不貞による「不義の子」であることは、疾うの昔に悟っている。
だが、それでもこの男は法的には私の息子であり、ヴァロアを継ぐべき唯一の存在なのだ。
(ああ、お姉様。私はこの男のために、貴女が愛したこの家を、歴史の泥沼へ沈めていくのですね)
渚を掴むその汚れた手。その腕は、金に変えるための品物ではない。
その時、シャルルが動いた。
彼はリュシアンの胸倉を掴み、信じられない力でタラップの端へと引きずっていった。
「驚いたか、ナギサ」
「アドリアン…」
爪が食い込むように強く握られた腕は赤く、指の跡がくっきりとついている。
隣に立つアドリアンの声は、凍てつくほど冷たかった。
だが、瞳は優しく渚を捉える。
「君は、この世界の『空気』が分からないのだな。これは、この時代の貴族にはありふれた光景だ。フランスに届いたのは勝利の報せだけではない。君という存在の噂を『金目の獲物』と捉えたのだな。まさに貴族らしい思考だな。……パパ、か。反吐が出る。シャルルが戦場で華麗に舞うのは、高潔な理想のためではない。そうしなければ、あの不実な妻と不義の息子に、家を食い潰されるからだ」
「な、何をするんですパパ! 今までは、言えばすぐにお金をくれたじゃないか! 今回の戦利品だって、僕たちに注ぎ込むのが当たり前だろう!?」
「黙れ。貴様に与える金など、もう一フランも残っていない」
シャルルは、縋りつく実の息子を、岸壁へと突き放した。
よろめき、石畳に這いつくばったリュシアンが、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「どういうつもりだ! 母上と僕はどうしたらいい!? 家族を見捨てるのか!? ……ああ、わかったぞ! その女のせいか!? その出処のわからぬ女を愛人として囲うために、僕たちを蔑ろにする気だな!?」
港に響き渡る醜悪な怒鳴り声。シャルルは二度と息子を見ず、ただ冷酷に、全軍への号令を下した。
「タラップを上げろ。全艦、微速前進。……ヴァロアの家名を、これ以上戦場の風に晒すな」
「パパ! 待てよ! この扱いを続けるのであれば、ガディスの異端審問所に駆け込むぞ! 『父は悪魔に魂を売り、異端の女を愛している』とな! パパも、その女も、火炙りの柱で後悔すればいい!!」
遠ざかっていく岸壁で、リュシアンはなおも呪詛を撒き散らしていた。
私は「異端審問」という中世の悪夢のような言葉に、膝をガタつかせた。
だが、アドリアンが私の肩を優しく掴み支えた。
「安心しろ、ナギサ。ボナパルトは神など信じちゃいない。フランスじゃ教会なんてただの政治結社だ。それに……我々は今、錨を上げた。奴らが古臭い書類を書いて審問官を動かす頃には、我々は公海の真ん中だ。二度と、ガディスの港に君の足を下ろさせはしない」
アドリアンの冷徹なリアリズムに、私の震えが止まる。
シャルルは、握りしめた扇を、軍服のポケットの中で音も立てずにへし折っていた。
「……これが、私の知らなかった『本物の歴史』なんだ」
痛む腕をさすりながら渚は呟いた。
高潔な英雄の仮面の下には、崩壊した家庭への絶望。
そしてシャルルの背負う孤独は、自分の血さえ流れていない「家族」を守り続けねばならないという、出口のない迷宮だった。
船がゆっくりと港を離れていく。
背後に残されたガディスの光は、もう照らしてはくれない。
逃げ場のない鉄の檻の中で、仮面を被った英雄たちの孤独と共に、未知の海域へと踏み出したのであった。




