第19話:虚像の聖女と、騎士の誓い
祝祭が始まって、七日が過ぎた。
ガディスの街を支配しているのは、もはや勝利の歓喜ではない。それは「女神」という実体のない偶像への、底なしの狂信だ。
その夜、総督府のホールでは、シャルル主催の戦勝記念舞踏会が最高潮を迎えていた。
「我がフランク軍の女神に乾杯を!」
というシャルルの高らかな声に合わせ、数百のシャンパングラスが触れ合い、耳を刺すような歓声が上がる。ホールの中心で、真珠と宝石の重みに耐えながら、渚は人形のように立ち尽くしていた。
(……誰か。……誰か、助けて……)
虚ろな視界の端で、給仕が不自然に皿を落とし、小さな騒ぎが起きる。その混乱を縫うように、一人の男が渚の影に滑り込んだ。
「……こちらへ」
低く、有無を言わせぬ響き。
アドリアンだ。彼は、七日間の狂乱で弛緩し、酒に酔い痴れた衛兵たちの視線が逸れた一瞬を見逃さなかった。シャルルが他の貴族に囲まれ、陶酔した表情で武勲を語っているその背後。アドリアンは渚の細い手首を掴むと、重厚なベルベットのカーテンの影へと彼女を誘い、一般客には知られていない書庫の奥へと駆け込んだ。
石造りの書庫は、ホールの喧騒が嘘のように静まり返っていた。アドリアンの手が離れた瞬間、渚は糸が切れた人形のように、床へ崩れ落ちた。
「……ナギ殿」
アドリアンが膝をつき、その肩に触れようとした、その時だった。
「……助けて。……お願い、アドリアン……助けて……っ」
渚は縋り付くようにアドリアンの軍服の袖を掴んだ。指先は死人のように白く、氷のように冷え切っている。
「私はただ……明日を生きるために必死だっただけなんです。この時代のことも、本当はそんなに知らない。ただ一時の命を守りたい一心で、情報と知識としてある『未来』を伝えただけで…。それがイギリス軍に痛手を与えて、こんな大事になるなんて思いもよらなかった…!」
思慮の足りない、浅はかな自らの行動を悔い、震える声で渚は後悔を吐き出した。
そして、この時代に現れてから初めての涙を流した。
彼女の口から漏れるのは、この時代の人間が使うはずのない言葉。それを聞きながら、アドリアンの瞳に確信が宿る。
(……やはり、そうか。貴女は「女神」などではない)
シャルルや民衆は、彼女を神の代弁者だと思い込んでいる。だがアドリアンは、彼女が発する「異質な言葉」や、この世界を余所者のように怯えて見つめる瞳から、真実に気づいていた。彼女は何らかの不条理によって、時間を超えてこの地に迷い込んだ訪問者なのだ。
「このままでは、私は……魔女として火に焼かれたかつての人のようになってしまう。これからの予言が外れれば、私は火刑台へ送られる……! 私、そんなの、耐えられません……っ!」
「……させない。貴女を、そのような場所へ行かせはしない」
アドリアンは、震える彼女を折れそうなほどきつく抱きしめた。
腕の中で泣きじゃくる渚。
その指先も、頬も、心さえもが、極限の緊張で凍てついていた。アドリアンが抱きしめているのは、神でも魔女でもない。
恐怖に身を竦ませ、ただの「人間」としての温もりを切望している、あまりにもか弱い一人の女性だった。
「私が、貴女を人間に戻してみせる。女神でも魔女でもない。『ナギサ』……私が、貴女をこの混沌から連れ出そう。約束する」
「……っ!」
渚はアドリアンの背中に腕を回し、爪が食い込むほどに強く彼を抱きしめ返した。
どれほどの時間、そうして抱き合っていただろうか。張り詰めていた糸が切れた渚は、アドリアンの胸に深く顔を埋め、何度も、何度も、凍えた身を温めるようにその胸元に頬を擦り寄せた。
軍服の粗い布地の感触を確かめ、そこにある確かな「熱」を吸い込もうとする、愛おしくも切実な仕草。そのあまりに無防備で、必死に安らぎを求める女性としての姿を、アドリアンはたまらなく愛おしく思った。
(……ああ。こんなに冷たくなるまで、貴女は一人で戦っていたのか)
彼女を「聖女」として崇め、独占しようとする者たちの狂気とは違う。ただ一人の人間として、この震える肩を守り抜きたい。アドリアンは彼女の頭を優しく包み込み、自らの体温のすべてを分け与えるように、深く、静かに抱きしめ続けた。
その二人の姿を、庭園の暗闇から成瀬ルカが見上げていた。
窓越しに見える、光り輝く書庫。
そこで、騎士に抱かれ、彼を求めるように頬を寄せ、泣きじゃくる渚。
その姿は、ルカの記憶にある「あの日の彼女」のままだった。
(……ああ。そうか。そういうことか、渚。)
ルカは自身の、節くれ立ち、屈辱の痕跡が刻まれた手を震えながら見つめた。
自分が嵐の海で消えてから、フランス軍の檻で蹂躙され、アーサーという怪物に「教育」され、心を殺して生き抜いてきた泥濘のような10年間。
だが、目の前の彼女はどうだ。
彼女は今も、あの日のままだ。つい数日前にあの日から飛んできたばかりの、無垢な渚のまま。
「……10年、だぞ……」
ルカの瞳から、一筋の涙が溢れ、泥に汚れた頬を伝った。それは憎しみでも怒りでもない。
自分だけが取り残され、自分だけが変わり果ててしまったことへの、救いようのない絶望だった。
彼女を抱きしめる騎士は、彼女の「数日前」の傷をいとも簡単に癒やすだろう。
だが、ルカとして失った10年を救える者はどこにも居なくなった。
流れた涙は冷たく乾き、ルカの瞳から光が完全に消えた。
「……勝手に幸せになるのは許さない。」
ルカは力任せにその顔を拭った。
10年という断絶。
それは、かつての「成瀬」を完全に殺し、目の前の少女を「敵」へと変えるのに十分すぎる時間だった。
「……君も、味わうべきだ。君という人間が腐り果てていく絶望を……。」
ルカは笑っていた。涙の跡を残したまま、深淵の底
のような笑みを。
祝祭の灯りが消えた闇の中、ルカの足取りは、もはや迷いのない「死神」のそれへと変わっていた。




