第18話:虚飾の祭壇と、火刑台の幻影
ガディスの街は、地響きのような歓声に包まれていた。
イギリス艦隊の封鎖を「予言」という暴力で粉砕したフランク軍は、今やこの街の、いや、フランスの救世主だった。
だが、その中心にいる渚の心は、違和感に支配されていた。
「さあ、大きく息を吐いて! もっと! 肺の中の空気を全部出し切るのよ!」
シャルルの私室は、戦利品として運び込まれた極上の絹と宝石の香りで満たされていた。提督としての威厳はどこへやら、シャルルは軍服の袖を捲り上げ、獲物を狙う豹のような目つきで渚の背後に立っている。
「ひ、提督……っ、これ、流石に……く、苦しい……です」
渚は柱にしがみつき、脂汗を浮かべていた。腰に巻き付けられているのは、クジラの髭が仕込まれた本格的なコルセットだ。シャルルが容赦なく紐を引き絞るたび、ギリギリと嫌な音が鳴り、渚の肋骨が悲鳴を上げる。
「あら、弱音を吐くには早すぎるわ。美しさは戦いなの! 姉様なんて、この状態でワルツを三時間踊りきったんだから。……ほら、もう一絞り!」
「う、ぐっ……!?」
グイッ、と力任せに紐が引かれた。渚の腰は現実離れした細さに絞り上げられ、押し出された胸元がドレスのデコルテから溢れんばかりに強調される。
鏡の中に映る自分は、もはや戦場を駆ける軍師ではなく、どこかの深窓の令嬢のような姿に変わり果てていた。
「提督……本当に、男装を止めてもいいのですか? 私が女だと知れ渡れば、軍の中での示しがつかなくなるのでは……」
苦しい呼吸の間から渚が問うと、シャルルは鏡越しに、獲物を慈しむような艶然とした微笑を浮かべた。
「あら、何を今更。最初から貴女のような愛らしい外見で、男として押し通そうなんて無理があったのよ。今まで誰も突っ込まなかったのは、貴女が『奇跡』を起こすから黙っていただけ」
シャルルは渚の細い肩に手を置き、逃がさないと言わんばかりに指先を食い込ませる。
「それにね、ナギ。貴女はもう男装して最前線を這いずり回る必要なんてないの。だって、貴女は私の、ひいてはフランスの『女神』としてここに君臨しているんだから。貴女には誰も指一本触れないわ。」
その言葉は、完全なる庇護の約束であり、同時に自由の剥奪だった。
シャルルは満足げに、深紅のベルベットドレスを渚の頭から被せ、海賊を掃討して奪い取った数々の宝石で渚を装飾した。
「完璧よ! 貴女はただ、私の隣で微笑んでいればいいの。だって貴女は、私たちの勝利を永遠にする『女神』なんだから。その美しさが、兵士たちに次の勝利を信じさせる、何よりの武器になるのよ」
「……武器、ですか」
鏡の中のシャルルを、渚はどこかぼんやりと見つめ返した。
つい数日前、嵐の甲板で「お前の言葉を信じる」と不敵に笑い、対等な戦友として肩を並べたあのシャルルの顔が脳裏をよぎる。けれど今のシャルルは、自分を「装置」として愛でている。渚の胸に小さな棘となって刺さっていた。
シャルルに腕を引かれ、バルコニーへ「展示」された瞬間、ガディスの広場を埋め尽くした数千の民衆が、爆発的な咆哮を上げた。
「おおお! 見ろ! 本物の女神だ!」
「ナギ! ナギ! ナギ!!」
狂ったように打ち鳴らされる鐘。夜空を昼間のように赤く染め上げる無数の松明。
「聖女ナギに血を捧げよ!」
「我らの運命を! 未来を! 貴女の指先で決めてくれ!」
広場を埋めるのは、信仰という名の狂気。自分という人間を見ている者は一人もおらず、ただ「次の予言」を食らおうと、飢えた獣のように彼女を見上げている。
(……薄気味悪い。フランスの歴史で、何度も繰り返された光景だ)
渚の脳裏に、かつてフランスを救い、最後には魔女として火刑台に送られた悲劇の少女――ジャンヌ・ダルクの姿が浮かぶ。
(今は『女神』なんて呼んで跪いているけど……。私が予言を外した瞬間、この熱狂はそのまま、私を焼く『火』に変わるんだわ……)
バルコニーの直下。
警護にあたっていたアドリアンは、軍帽の庇を深く引き下げ、その茶番に吐き気を覚えていた。
(……滑稽だな。あれほど魂の自由を愛していた提督が、今や一人の女を飼い殺そうと必死になっている)
シャルルの醜悪な独占欲への嫌悪。だがそれ以上に、アドリアンの心を掻き乱していたのは、目の前の少女に対する生理的な戦慄だった。
アドリアンは、渚が綴った英語の「予言書」を、自らの手でフランス語へと翻訳し続けた。自分の訳した言葉が、寸分違わず現実として目の前で再現されていく。
そのたびにアドリアンの指先には、ペンを握っていた時の冷たい感触が蘇るのだ。
自分は彼女が紡ぎ出す呪いのような未来を、この世界へと解き放つ「共犯者」なのだという自覚。
(あんたは、一体何なんだ…。)
ドレスを着て、今にも窒息しそうに肩を震わせている少女。
そのあまりに無防備なうなじを見れば、今すぐ救い出したいという庇護欲が疼く。
だが同時に、これから起きる惨劇を「記録」として淡々と記述していた彼女の底知れなさに、本能的な恐怖が背筋を駆け上がる。
救いたいと愛おしく思った女から、世界を弄ぶ薄気味悪い魔女に変わっていく矛盾した感情がアドリアンの胸を深く抉った。
ガディス港がフランク軍の祝杯に沸いている頃、そこから数マイル離れた、人の気配のない荒涼とした海岸に、一隻の小舟が音もなく乗り上げた。
イギリスの監視役たちに突き飛ばされるようにして、成瀬は冷たい砂浜に這いつくばった。
「……はぁ、……っ」
ボロボロになった外套を必死に合わせ、震える膝を叩いて立ち上がる。
アーサーは賢明だった。
イギリスの旗を掲げた船が、解放されたばかりのガディス港へ直接入れば、瞬時にシャルルの餌食になる。
だからこそ、ルカは「密輸商人の荷物」としてこの辺境の浜に捨て置かれ、ここから陸路で、祝祭に沸く街へと潜り込むことになったのだ。
背中の傷が、海風の塩気に焼かれるように疼く。
監視役に急かされ、用意されていた粗末な荷馬車の荷台に潜り込んだ。ガディスへと向かう泥だらけの街道を、馬車がガタガタと揺れながら進む。
その道中、検問や休息のために立ち寄った宿場町で、ルカは嫌というほど「それ」を耳にした。
「聞いたか、ガディスの女神様の噂を」
「彼女がひとたび口を開けば、海は割れ、イギリスの船は沈む。もはや人間じゃねえ。……生き神様だよ」
馬車の荷台で、野菜の空き箱に身を寄せながら、ルカは乾いた笑い声を漏らした。
(女神……。予言の、生き神様……)
自分はアーサーという怪物に魂まで汚され、地の底を這いずり回って、今やスパイとして彼女を陥れるために運ばれている。それなのに——。
ルカが「肉」として扱われたその軍隊で、彼女は「神」として君臨している。
その事実が、アーサーに刻まれた背中の傷よりも深く、鋭く、ルカの心を切り裂いた。
自分一人が地獄に堕ちていたのか。
ガタガタと揺れる荷台の上で、ルカは自身の震える肩を抱きしめた。
自分たちが現代から知識として共有している「予言」という異能。
それは自分を地獄の底へ突き落とし、彼女を神座へと押し上げた。その不条理が、ルカの摩耗した精神をさらに鋭く研ぎ澄ませていく。




