第16話:トゥーロン沖の奇跡と戦慄
1803年11月5日。嵐が去ってから数日後。
ジブラルタル近海、イギリス艦隊旗艦『ヴィクトリー』の艦長室。アーサーは震える手で偵察報告書を握りしめたまま、彫像のように固まっていた。
(……一隻の欠損もなく、全艦が入港しただと?)
報告によれば、ガディスに入港したフランス艦隊の数は、包囲していた時よりも増えているという。嵐で迷走していた別動隊までをも吸い寄せ、巨大な一つの意志となって封鎖網を突き抜けたのだ。
だが、アーサーを最も凍りつかせたのは、偵察艦が捉えた敵艦隊の「陣容」だった。
(馬鹿な……ありえない。あそこにいたのは、老朽化が進み、あの嵐を受ければ沈むはずだった『ビュサントール』が旗艦の艦隊だったはずだ。
しかし、実際に我々の背後を突き、先頭で入港したのは、記録にない巨艦『エトワール・ド・オリエント』。しかも沈むはずだった『ビュサントール』までもが無傷でその脇を固めているだと!?)
アーサーは激しい眩暈に襲われ、デスクを掴んだ。
今まで、ルカの予言が外れたことなど一度もなかった。
ルカが「落ちる」と言えばリンゴは落ち、「死ぬ」と言えば王ですら死んだ。その的中率は、もはや神の法典と同じだったはずだ。
(ルカの予言が、音を立てて崩れていく。……誰だ。誰がシャルルの背後で、これほどまでに書き換えている? シャルルという男一人に、これほどの芸当ができるはずがない…)
ふと、アーサーの脳裏を、最近うなされていたルカの姿がよぎった。
「ナギサ……」と、聞いたこともない名を呼び、記録に存在しない「東洋人の女」を探していたルカ。
(ルカの探して求める『異物』が、生きていたのなら……!?)
そうであれば、自分たちが戦っているのは今までのフランス軍ではない。
「ルカの予言書」という盤面そのものを、根底からひっくり返す正体不明の意志なのだと。
冷徹だったアーサーの瞳に、初めて拭い去れない「異物」への戦慄が深く刻まれた。




