第14話:トゥーロン沖の奇跡と戦慄
1803年10月22日、午前10時。
トゥーロン沖を包囲するイギリス艦隊の陣形は、史実通り鉄壁だった。旗艦『ヴィクトリー』に座すネルソン提督の傍らには、参謀アーサーがいた。
「提督、間もなくミストラル(北風)が来ます。フランス軍は必ずこの嵐に乗じて西へ逃げる。……奴らが選ぶ『最も安全な避難航路』の出口に、全火力を集中させてください」
船体への負荷を最小限に抑えつつ逃げるであろう場所に、罠を張る作戦を伝える。
一方、フランス艦隊の甲板は怒号に包まれていた。
「提督! この凪を見ろ。空は抜けるように青いではないか!」
「あの娘の妄言に乗り、我々を無駄死にさせる気か!」
「黙れ! その濁った眼で空を見上げ、知ったような口を利くな!」
シャルルは拳を甲板の縁に叩きつけました。数日前、荒れ狂う嵐の真っ只中、沈没寸前だったこの艦隊を救ったのは、他でもない渚の言葉でした。その奇跡を目の当たりにしたはずの士官たちが、今また目の前の穏やかな陽光に惑わされている。
「お前たちは、あの日、波に飲まれて消えていたはずの命だということを忘れたのか? 誰が貴様らを、この『静寂』まで導いたと思っている。……渚が『嵐が来る』と言えば、それは神の宣告と同じだ。空がどれほど青かろうと、海がどれほど眠っていようと、彼女が見ているのは、お前たちの浅薄な経験則が及ばぬ『確定した未来』なのだ!」
シャルルは渚を傍らに引き寄せ、全軍に聞こえるような鋭い声で言い放ちました。
「この凪は、破滅の幕開けに過ぎん。いいか、これより本艦隊は、彼女の指示通りに動く。一分一秒の狂いも許さん。彼女の言葉を疑う者は、この海に身を投げるがいい。未来を視る者が、我らと共にいるのだ。その幸運に震え、ただ従え!」
「提督! そろそろ、空が変わります!」
渚の声が甲板響き渡った。
鏡のような海面に銀色の「皺」が走り、次の瞬間、空が黒インクで塗り潰された。猛烈なミストラル。
「全艦、縮帆! 右舷回頭、針路北北西! 嵐の『中心(地獄)』へ突っ込むわよ!」
シャルルの鋭い号令に、全軍が凍りついた。
「提督、正気か! 船体がもたない!」
アドリアンの叫びを、渚の咆哮が切り裂いた。
「いいえ、折れません!この旗艦『エトワール・ド・オリエント(東方の星)』は絶対にこの嵐を切り抜けさせてみせます!」
船体の強度限界と微細な局地気象データを掛け合わせ、死のショートカットを選び嵐の中を突き進んだ。
イギリス艦隊側。
アーサーの計算では、フランス艦隊はすでに波の下に沈んでいるはずだった。だが、霧の向こう、あり得ない角度からフランスの影が現れる。
アーサーの「まかさ!!」の咆哮。
「報告! 敵旗艦、我々の……『背後』に現れました!!」
「何だと……!? まさか、損耗を無視してあの地獄を抜けてきたというのか!」
ネルソンとアーサーが驚愕に目を見開く。
アーサーの「秘密の最適解」を、渚が「歴史の記録」という暴力で踏み越えた瞬間だった。風を背に受け、絶好の射撃角度を取ったシャルルが悪魔のように笑う。
「全門開け(ファイア)! 『予言』の通りに撃ち抜くわよ!」
無防備なイギリス艦隊の船尾を、フランス軍の斉射が切り裂いた。
勝利と絶望
一時間後。暴風の壁を突き抜け、イギリス艦の影一つない平穏な海へ。
「……予言、的中です」
予言の的中に船員達は二度目の言葉を失った。
甲板で一人、荒れ狂う北の空を見つめる渚。
(……もしかしたらこの嵐を切り抜けた事で、私の知っている歴史が崩れるかもしれない。けど私が書いた『予言の書』で未来を切り開くしかないんだ――)
アドリアンは、そんな彼女の背中を、ただ立ち尽くして見つめていた。
自分たちの書いた予言書通りに事が起こり、船が壊れないと分かっているからと地獄へ叩き込こむ。
彼が伸ばしかけた手は、あまりの気味悪さと神への畏怖に、空中で止まった。
渚を守ると誓ったはずの彼の心に、ぬぐい去れない「恐怖」という名の楔が、深く、深く打ち込まれた。
アーサーは、目の前をただ見つめ、震える手で海図を握りしめた。ルカの予言ではフランス艦隊の生存確率は 0% に等しいはずだった。今まで外れた事のない予言がここにきてなぜ…。
しかし現実に、彼の鼻先には敵艦が放った硝煙の匂いがこびりついていた。
「……誰だ。誰が、神の書いたシナリオを書き換えている?」
冷徹な瞳に、初めて「未知」への戦慄が走る。
封鎖を突破した一行は、運命を狂わせたままスペインへ。




