第13話:血の写本 ― 運命の翻訳 後半
「……選ばなきゃ。全部は無理でも、これだけは、これだけは絶対に伝えなきゃ……!」
渚の瞳は血走り、猛烈な疲労で視界が歪んでいた。だが、指を止めることはできない。
羊皮紙に叩きつけているのは、1803年の人間には「神の視点」そのものである、残酷かつ精密な「未来」だった。
渚はオフライン保存していた『気象学入門』の統計データを呼び出し、直近の死線である**「1803年10月22日」**の情報を解析した。
「10月22日未明、気圧が急落。リオン湾から吹き下ろす暴風ミストラルが海を白く染める。規律を重んじるネルソンは、必ず艦隊を東のマッダレーナ湾へ避難させる。その48時間、港の正面は『空白』になる。西へ舵を切れ。嵐の渦中こそが、イギリスの目から逃れる唯一の道」
「数時間単位の精密な気圧変化グラフ」を写し取った。
次に開いたのは、ダウンロードしていた学習漫画や歴史小説の資料ページだ。1803年から1805年に至る、フランス海軍崩壊の歴史をほんのわずかな記載でも、残すことなくひろいだし、予言書のように書き留める。
手が激しく震える。本来、トラファルガーでフランスが壊滅する日の記録。
「ネルソン・タッチ……縦列突破。敵が正面から垂直に突っ込んできたら、それは罠ではない。その瞬間に一斉回頭し、敵の横腹を叩け。歴史通りの陣形(横並び)に固執すれば、フランス海軍はここで全滅する」
ついにバッテリー残量1%…
画面のバックライトが絶望的なほど暗くなる。渚の手が止まった。
写本の手を止め、震える指でカメラロールを開いた。現代の服を着て笑う自分、友達、大好きな両親。
そして、ぶっきらぼうで優しい成瀬の姿。
渚は唇を白くなるまで噛み締め、涙をこらえた。泣いている暇などない。
網膜に焼き付けるように見つめた。
これが消えれば、自分を証明するものがすべて消えるような激しい焦燥感。
(さよなら、私の世界…。)
最後に一文字、成瀬へメッセージを送信した。
『私は生きてます。』
パツン。
届くか分からない、メッセージ。
絶望的なほど小さな音と共に、スマートフォンは冷たい黒いガラスの板に変わった。




