第13話:血の写本 ― 運命の翻訳 前半
シャルルの命令により、司令室は完全な密室となった。
運び込まれたのは、最高級の羊皮紙とインク、そして予備のペン。シャルルが退室し、重い扉の閂かんぬきが下ろされる。
部屋に残されたのは、渚とアドリアンの二人だけだ。
「……始めましょう、渚殿。一文字間違いなく、貴公の予言を翻訳します。」
アドリアンは渚の横に座り、彼女の持つスマートフォンの青白い光をじっと見つめた。
渚が震える手で英文を綴り始め、アドリアンがそれをフランス語へと翻訳していく。だが、数行も書かないうちに、アドリアンのペンが止まった。
「……待ってください。これは……何だ?」
羊皮紙に記された名は、ピエール=シャルル・ヴィルヌーヴ。
フランス海軍の重鎮であり、誰もが知る最高権威の名だ。
「渚殿、これは……ヴィルヌーヴ閣下のことか? 」
「……ええ、この先の予言で重要な人物です」
渚の英文の予言書をアドリアンは息を呑みながら、翻訳する。
『1805年、トラファルガー。連合艦隊はネルソンの二列縦隊による突撃を受け、分断。旗艦ブサンテールは乱戦の中でマストを失い、完全に孤立。ヴィルヌーヴ提督は捕虜となり、フランス艦隊は壊滅……』
「馬鹿な……っ! あのブサンテールが、なす術もなく沈黙するというのか!? それにヴィルヌーヴ閣下が敵に首を垂れるなど、あり得ん! フランス海軍の誇りはどうなる!」
アドリアンは激昂し、椅子を蹴り飛ばさんばかりに立ち上がった。だが、渚は動じない。ただ、目を大きく見開きスマートフォンを見つめている。
アドリアンの言葉は耳に届いていないように、凄まじい集中力で書き進めている。
アドリアンは震える手で、再びペンを握った。必死にページを捲る。
「……。ヴィルヌーヴ閣下が指揮を執り、敗北を喫する記録ばかりだ。ならば、今の指揮官……シャルル提督の名はどこにある? 私の名は? 我々第3艦隊の戦果はどう記されているのだ!」
渚はペンを置き、アドリアンを真っ直ぐに見つめた。
「……ありません。どこにも」
「何だと……?」
「予言の通り、ヴィルヌーヴ提督が艦隊を率いてトラファルガーへ向かいます。シャルル提督も、アドリアンさんも、歴史の表舞台に上がる前に……『あの日』の嵐で、この海に沈んでいるからです」
アドリアンの心臓が、鐘を叩いたかのように大きく跳ねた。
「あの日……だと?」
「はい。私がこの世界に来て、あなたたちに拾われた後のあの嵐です。本来ならあの日、この艦隊は一隻残らず海の藻屑となって消えていました。だから、歴史には『出航直後に嵐で全滅した無名の艦隊』としてしか残っていないんです……」
アドリアンの額から、冷や汗が伝い落ちる。
自分たちが今、こうして吸っている空気。握っているペン。隣にいる少女の体温。
自分たちが今、ここに「存在している」こと自体が、彼女がもたらした最大の、そして最初の**「歴史改変」**だった。
まだこと時は、その重要な変換地点とは渚は気づいていない。
「…………そうか」
アドリアンは深く、深く息を吐き出した。
あまりにも巨大な事実に、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われる。だが、同時に、魂を焦がすような狂おしいほどの情熱が彼を支配した。
「ならば、渚殿。私は、この『借り物』の命を、一秒たりとも無駄にはしない」
アドリアンは、渚の冷え切った手に自分の大きな手を重ね、逃がさないように、しかし慈しむように、ペンを力強く握り直させた。
「あなたが救い上げ、繋いでくれたこの『現在』を、私は命を賭して肯定しましょう。我々が歴史にさえ存在しない『亡霊』だというのなら、なおさらだ。……あなたの望むままに、この訪れる地獄を書き換えてみせる」
アドリアンの瞳には、もはや迷いはなかった。
あるのは、自分たちに「生」という呪いと祝福を与えた少女への、狂信的なまでの忠誠心だけだった。
「渚殿。……あなたの知る『敗北の予言』を、私たちがこの羊皮紙の上で殺すのです。名もなき死で終わるはずだった我々の運命を、あなたが……あなたが『最強の勝利』へ書き換えてください」
「……はい、アドリアン」
渚の決意が羊皮紙にインクを染み込ませた。
それは、孤独な漂流者が、この世界で初めて「運命を共にするパートナー」を見つけた、痛切な誓いだった。
深夜、スマートフォンの画面が激しく明滅し、プツンと音を立てて消えた。
完全な暗闇の中、二人は重なり合う心音だけを頼りに、夜が明けるまで書き続けた。




