番外編:十月の星に、孤独な魚は問いかける
十月の夜気は鋭い。
アドリアンは定位置に着くと、背後の気配を振り返らずに告げた。
「……提督の許可は得たのでしょうね」
「はい。アドリアンの仕事を見学したいって言ったら、案外あっさりと」
「私が同行する以上、不測の事態は起こさせません。……ですが、邪魔はしないでください。これより天測に入ります」
アドリアンはそう断ると、懐から六分儀を取り出した。
言葉遣いは丁寧だが、職務に対する厳格さが滲んでいる。
星の高度を測り、時間を計測する。
その一連の動作に、渚は内心で深い感銘を受けていた。
(1803年……この時代の海上で、これほどの精度。計算機もGPSもなしに、月距法で経度を割り出そうとしている……)
アドリアンの指先の動きには、一切の無駄がない。
渚は彼の集中を削がないよう、少し離れた位置でその手元を見守った。
それは、技術者に対する純粋な敬意の眼差しだった。
「………32度15分。計算終了」
アドリアンが手帳に数値を書き留める。
冷淡な響き。
だが、手帳を閉じたアドリアンは、背後に漂う気配があまりに静かすぎることに、微かな違和感を覚えた。
「……ナギサ殿。邪魔はするなと言いましたが、息を潜めすぎては不気味です。何か発言なさい」
命じるような口調。
だがその実、彼は彼女の沈黙に落ち着かない自分を、必死に誤魔化そうとしていた。
渚は少し驚いたように瞬きをしてから、ふっと肩の力を抜く。
「ごめんなさい。あまりに無駄のない手つきだったから、見惚れちゃって……。この時代の天測って、こんなに張り詰めたものなんだね。……私、今のこの時期の夜空が、一番好きなんだ」
「……十月の空が、ですか」
「私は七月生まれだから、夏の派手な星空も嫌いじゃないけど。十月の空は、空気が澄んでいて、星が凛としているでしょう? 派手な一等星は少ないかもしれないけど、航路を導くために必要な星が、静かに、でも確実にそこにある感じがして。……なんだか、すごく信頼できる」
渚は手すりに寄りかかり、慈しむように夜空を見上げた。
その横顔に、男装の兵士としての険しさはない。
ただ純粋に、美しいものへ敬意を払う少女の穏やかさがあった。
アドリアンは、六分儀を握る手に思わず力が入る。
(……この時期の空を、信頼できる、と)
自分が生まれた十月の夜空を。
彼女は「信頼できる」と微笑んで、肯定している。
自分が十月生まれであることを、今この瞬間に打ち明けることもできた。
だが、アドリアンはそれをあえて飲み込んだ。
「……貴女らしい、風変わりな評価ですね」
努めて冷淡に。
しかし、どこか柔らかな響きを込めて、アドリアンは言葉を返した。
「ですが、その『信頼できる星』を読み違えれば、我々は明日をも知れぬ身です。……ペガススの南にあるフォーマルハウトをご覧なさい。孤独な南の魚の星。今の海域では、あれが我々の指標となる」
「……本当に綺麗。……ねえ、アドリアン。来年もまた、こうしてこの時期の空を、一緒に読めるかな……」
来年も。
明日があるかも分からない渚にとっては、それは祈りのような言葉だった。
アドリアンはならば、渚の誕生月の星を一緒にみたいと一瞬よぎった。
「……さあ。未来の座標など、どの天体暦にも記されてはいませんよ」
アドリアンはそう突き放しながら、手帳の端に記された「自分の誕生日」の数字を、誰にも見えぬよう親指で隠した。
「……また熱を出されては困ります。部屋までお連れしましょう」
そう言って歩き出したアドリアンの背中を、渚は少しだけ寂しそうに見つめた後、慌ててその後に続いた。
アドリアンは、一歩前を行きながら。
決して、振り返ることはしなかった。




