番外編:海上の着せ替え人形(ドール)
「さあ、大きく息を吐いて! もっと! 肺の中の空気を全部出し切るのよ!」
シャルルの私室は、戦利品として運び込まれた極上の絹と宝石の香りで満たされていた。提督としての威厳はどこへやら、シャルルは軍服の袖を捲り上げ、獲物を狙う豹のような目つきで渚の背後に立っている。
「ひ、提督……っ、これ、流石に……く、苦しい……です」
渚は柱にしがみつき、脂汗を浮かべていた。
彼女の腰に巻き付けられているのは、クジラの髭が仕込まれた本格的なコルセットだ。シャルルが容赦なく紐を引き絞るたび、ギリギリと嫌な音が鳴り、渚の肋骨が悲鳴を上げる。
「あら、弱音を吐くには早すぎるわ。美しさは戦いなの! 姉様なんて、この状態でワルツを三時間踊りきったんだから。……ほら、もう一絞り!」
「う、ぐっ……!?」
グイッ、と力任せに紐が引かれた。渚の腰は現実離れした細さに絞り上げられ、押し出された胸元がドレスのデコルテから溢れんばかりに強調される。
呼吸は浅くなり、視界がチカチカと点滅する。軍服を着ていた時の「兵士としての自分」が、物理的に削ぎ落とされていくような感覚。
シャルルは満足げに鼻歌を歌いながら、深紅のベルベットドレスを渚の頭から被せた。
「……完璧。ああ、なんて可愛らしいのかしら。まるで海に咲いた一輪の薔薇だわ!」
鏡の中にいたのは、作られた少年の面影など微塵もない、一人の「女性」だった。コルセットのせいで少し潤んだ瞳と、浅い呼吸で上下する白い肩。
その時、ノックもなしに部屋の扉が勢いよく開いた。
「提督! 護衛艦からの緊急報告を——」
現れたのは、伝令のアドリアンだった。
しかし、彼の言葉は最後まで続かなかった。手にしていた書類が、音もなく床に滑り落ちる。
「…………なぎ、さ……殿?」
アドリアンの瞳が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれる。
貴族の家から追放され、美学も誇りも捨てたはずの彼にとって、目の前の光景はあまりにも劇薬だった。苦しげに肩を震わせ、今にも折れそうな細い腰をドレスで包んだ渚。広くあいたデコルテにつたう冷や汗。その眩しさに、アドリアンは心臓を素手で掴まれたような衝撃を受ける。
「あら、アドリアン。ノックもできないなんて、お里が知れるわよ?」
シャルルは渚の肩にわざとらしく手を置き、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「でも、見惚れるのも無理はないわね。この子は今夜、私の大事な『お姫様』なんだから。ねえ?」
「あ……ぅ……」
渚は恥ずかしさと苦しさで顔を真っ赤にし、助けを求めるようにアドリアンを見た。
しかし、アドリアンは真っ赤になった顔を隠すように拳を握りしめ、目を逸らすことすらできずに、ただ立ち尽くしていた。




