第12話:契約の対価 ― 予言の写本
シャルルは、冷え切った控室で耐えていた渚を司令室へと呼び戻した。
ジャンの冷徹な検分と、それに激昂したアドリアンの怒声が止んだ部屋は、重苦しい沈黙に包まれている。
「お待たせしたわね。……疑惑は一つ解消させてもらったわ。今後はただの不思議な漂流者ではなく、拒否権のないフランス海軍特任航海士への招聘よ」
シャルルはまず、渚の正面に立ち、重みを持った釈明を口にした。
「……先ほどの非礼を詫びるわ。艦には五百人の命、そしてフランスの運命が乗っているの。あまりに特異さに、懸念を一滴残らず削ぎ落さなければならなかった……。でも残酷なやり方だったことは認めるわ。ごめんなさいね」
「提督……」
渚は小さく息を呑んだ。自分を道具として値踏みした冷徹さの裏に、指揮官としての胃を焼くような責任感があったことを知る。
シャルルは巨大な海図机を指し示した。
そこには、1803年当時のフランスが置かれた「絶望」が描かれていた。
「見て。私たちの主要な軍港は、イギリスの『ネルソン』という猟犬に完全に封鎖されている。一歩でも出れば喉元を噛み切られるわ。皇帝は無茶を言うけれど、私たちは数時間後の天候さえ予知できない。暗闇で目隠しをして剣を振っているようなものなのよ」
シャルルの指が海図の上で止まる。その声に、不気味な響きが混じった。
「……それに、ここ十年ほどかしら。イギリス軍の動きが、妙に『洗練』され始めているの。まるで、私たちの心理を読み、一歩先の未来を知っているかのような精密さ……。何者かに『導かれている』ような気味の悪さだわ」
渚は僅かに眉をひそめた。
あいにく歴史はそれほど詳しくない。
「イギリス海軍は強かった」という教科書レベルの認識しかない彼女には、シャルルの抱く違和感が何に起因するのか、具体的には分からなかった。
(もっと……もっとちゃんと世界史勉強しておけばよかった。もし私が詳しい知識を持っていたら、今の言葉の裏にある『正体』に気づけたかもしれないのに……!)
自分の不勉強をこれほど恨めしく思ったことはなかった。だが、悔やんでいる時間はない。
(でも、このままじゃ……私の知っている歴史通り、フランスは負けるのは間違いない。私を救ってくれたこの人たちは死んじゃうんだ…)
渚は海図に書き込まれた戦況を凝視し、真っ直ぐにシャルルを見据えた。
「……分かりました。シャルル提督、私の知識を**『予言』**として使ってください」
その言葉は、もはや少女の願いではなく、過酷な時代を生き抜くための「契約」だった。
「ただし、条件があります。この予言は、今後あなたたち二人の前でしか口にしません。 他の誰にも、何があっても他言無用です。もしこれが漏れれば、私は魔女として火にかけられるか、怪物として一生閉じ込められる……。だから、これを伝える代わりに、私の命の保証をしてください。 最後まで私を守ると、約束して……!」
「いいわ、了承したわ(ダコール)。その契約、謹んで受けて立つわよ」
だが、次の瞬間には司令室の空気が凍りついた。シャルルの瞳が鋭く細められ、膝をついていたアドリアンが弾かれたように顔を上げる。二人の表情には、隠しようのない驚愕と、畏怖が混じり合っていた。
(……予言、と言ったな)
だが、渚はその反応の「重さ」に気づいていなかった。
「ではお伝えします。今のフランス軍に足りないのは『確信』です。私の道具を使えば、数日後の風の流れを『確定した未来』として教えることができます。まもなく、この地中海に異例の低気圧が接近します」
「あ、それでですね! この画面のグラフを見てください、ほら!」
渚はスマートフォンをパッととり、顔認証を済ませ画面をシャルルの眼前に突き出した。
オフラインでも動作する登山用アプリの**「気圧計グラフ」**が、鮮やかな青白い光を放っている。
「ヘクトパスカルっていう空気の重さの単位なんですけど、さっきから垂直に近い角度で急落してるんです。これほど急激に気圧が下がるってことは、数時間後に海がひっくり返るような爆弾低気圧が来るっていう、絶対の証拠なんです! イギリス艦隊も予測できていないはずです。だから、今のうちに準備を……!」
シャルルの瞳から、先ほどまでの僅かな熱が完全に消えた。彼は氷のように冷え切った、底知れない眼差しで渚を射貫く。
「…………ほう」
震えるほど冷たい返事だった。
シャルルは、目の前の少女をこの上なく訝しげに凝視していた。
自称・漂流者が操る、見たこともない「光る板」。神の領域である天候を「確定事項」として断じる傲慢さ。
そのすべてが、あまりにも「異質」だった。何らかの罠か、あるいは……。
だが、軍人としての本能が、シャルルの背筋をゾクゾクと震わせていた。もしこれが真実なら。この毒杯を飲み干せば、あの鉄壁のイギリス海軍を完膚なきまでに叩き潰せる。
(……ああ、最高だわ。これほど得体の知れない賭けなんて!)
シャルルの唇が、悦楽に歪んだ。最高に怪しみ、疑いながらも、同時に湧き上がる「歴史をひっくり返せる」という極上の面白さに、彼の狂気が拍動していた。
「いいでしょう、予言者さん。その確信が真実か、あるいはあなたの妄想か……この海の上で証明してもらうわ」
「……一つ、絶対に必要なことがあります」
渚の声が、悲痛なほどの切実さを帯びた。彼女は画面右上の数字、残り**「42%」**を指差した。
「この道具は、あと数日で『死にます』。一度消えたら、二度と目覚めません。ここにある未来の海図も、気象データも、すべて失われます」
「寿命があるというのか……その神の器に」
アドリアンが息を呑む。
「はい。だから、動いている今のうちに、すべてを『紙』に書き写さなければなりません。この機械の命が切れる前に、私の記憶とこの中にある知識を、この世界の形に変換して残す。それが、私の最初の戦いです」
シャルルは、渚の瞳に宿る、自らの命を削るような覚悟を見た。その必死さに、シャルルの冷徹な疑念すらもが「利用価値のある執念」として評価を変えていく。
「アドリアン! 今すぐ最高級の羊皮紙とインクを用意しなさい。部屋にはナギを一人にし、誰一人として近づけるな。……アドリアン、あなたは扉の前で番犬を。彼女の食事と睡眠を管理しなさい。」
「ところで…ナギはフランス語は書けるの?」
ナギはけの問にハッとする。
「…会話はかろうじて出きるのですが、書けません。でも英語は書けるので、アドリアンさん翻訳をお願いできますか?」
「……ふっ、あはは。なんだ、それは」
それまで張り詰めていた司令室の空気が、アドリアンの漏らした短い笑い声で、ふっと緩んだ。
彼は口元を押さえ、肩の力を抜いて天を仰いだ。あまりの豹変ぶりに、渚は目を白黒させ、シャルルさえも意外そうな表情を浮かべる。アドリアンの瞳からは、先ほどまで彼女に抱いていた「生理的な恐怖」や「異形への畏怖」が、急速に人間臭い安堵感へと塗り替えられていった。
「……失礼。ですが、あまりにも……」
アドリアンは優しく、けれどどこか揶揄うような視線を渚に向けた。
「未来の空を読み、神の器を操り、フランス語まで流暢に話してみせる。……それなのに、文字の一行も綴れぬというのですか。神はあなたに万能の力を与えながら、最後の最後でとんだ茶目っ気を残されたようだ」
全知全能の予言者という化け物の仮面の下から、言葉も書けない等身大の少女が顔を出した。そのギャップが、張り詰めていた彼の精神を救ったのだ。
「……笑わないでください、アドリアンさん! 私は必死なんですよ!」
渚が顔を真っ赤にして抗議する。年相応の少女らしい反応を見て、アドリアンは穏やかに微笑んだ。
「いいでしょう。英語なら、元貴族としての教養と、戦時下の折衝のために叩き込まれました。このアドリアン、謹んでお引き受けしましょう。あなたが綴る文字を、私が正しく翻訳してみせます」
「私が貴公の隣で、その『予言』を羊皮紙に定着させます。貴公子の命も、その秘密も、私がこの手で守り抜きましょう」
シャルルはその様子を眺め、不敵な笑みを浮かべて扉へと歩き出す。




