第115話:狂乱のチュイルリーと、孤独な策士
パリ、3月15日――。
パリ公使館
ルブランの執務室。
机の上には、シャルルから届いた一通の書簡が開かれていた。
一見すれば、ただの観光案内のようだが、ルブランにはその紙面に隠された複雑な図形が、まるでラピュタの計算機のように読み解いた。
それは、ピレネーの雪山が完全に「檻」へと変貌したことを示していた。
「……やれやれ。エミールめ、本当に仕事を完遂したか。ニコラの指導の賜物だろうが、少しは成長したようだな」
ルブランは椅子に深く寄りかかり、新しく刻まれた紫の頬の腫れをさすりながら目を閉じた。
2月1日にパリを発った特使が、泥濘のピレネーを越え、スペインに『歴史の汚名』という名の身代金を課し、ついにカディスへ到達した。
これで『黄金のバイパス』は完成した。
「……さて。こちら(パリ)も遊んでた訳じゃない。舞台は整いつつある」
彼は窓の外を見る。
チュイルリー宮殿の灯りは深夜だというのに煌々と輝いている。
ボナパルトを取り巻く環境は、かつてないほど緊迫していた。
カドゥダルら王党派の暗殺陰謀が発覚し、ボナパルトは怒りと疑心暗鬼に駆られ、ブルボン家の残党を一掃しようと神経を尖らせている。
この緊張は、彼が「終身統領」から「皇帝」へと権力を固めるための必要な触媒だ。
バイヨンヌから届いた情報によれば、イギリスの工作員たちはピレネーでことごとく足止めを食らっている。
(時の流れを支配しているのは、こちらだ。)
(閣下は今、この陰謀を逆手にとり、ブルボン家の残党を完全に潰し、皇帝としての地位を固める最後の一押しを狙っている。……そこに、カディスの『女神』という最高に不誠実なジョーカーを投下する)
ピレネーの雪が溶ければ、ネルソンが動き出すだろう。
だが、その前にパリでボナパルトを皇帝にし、フランスを一枚岩にする。
「さあ、シャルル。女神を連れて、この狂った都へ戻ってこい。……お前がいない間、俺がこの街の『毒』をすべて飲み干し、最高の舞台を整えてやる」
コンコン、と唐突にノックの音が響く。
「ルブラン公使。……統領閣下が、ただちにお会いになりたいとのことです」
冷徹な宮殿の使いが扉越しに告げた。
ルブランは椅子の上で、誰にも気づかれぬよう小さくため息をついた。
ただの公使としての間柄であったはずが、女神の到着をシャルルの望み通りに運ぶため、ボナパルトの懐に深く入り込みすぎた代償。
深夜の呼び出しという形で日常化していた。
「……承知した。すぐに参る」
ルブランは立ち上がり、コートを羽織ると、狂乱の渦中にある宮殿へと歩き出した。




