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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第六章:パリ凱旋とピレネーの檻

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第114話:硝子とワイン、留守居の契約

 カディス海軍公廠の一角、夜の帳が下りた執務室。

 卓上には、エミールが命懸けで運んできた40フラン金貨が、月光を反射して鈍く光っている。




 シャルルは軍服の襟を崩し、目の前の男――ニコラに、深紅のワインが注がれたクリスタルグラスを差し出した。




「お疲れ様、ニコラ。マドリードの喉元にナイフを突きつけて、これだけの『誠意』を引き出した手腕、見事だわ」




 ニコラは音もなくグラスを受け取り、その芳醇な香りを愉しむように目を細めた。




「ルブラン公使の冗談を少しだけ煮詰めて差し上げただけですよ。彼らは歴史に泥を塗られることを、死よりも恐れていましたから」




 シャルルは椅子に深く腰掛け、窓の外――夜の海に浮かぶ連合艦隊の灯火を見据えた。





「ナギを連れてパリへ発つ。……貴方には、このカディスの『留守居』を頼みたいの」




「おや。私は文官ですよ、提督。軍を指揮する権限など持ち合わせていない」




「分かっているわ。だからこそ、貴方に頼んでいるの」




 シャルルはグラスを置き、地図の上に指を滑らせた。



「……ジブラルタルの獅子、ネルソン。奴らは夜も灯りを消さず、そこに留まっていると誇示している。だが、あれはただの囮よ。ネルソンという男、不名誉を何より嫌う英雄だわ。艦隊を見捨てて一人逃げるなどあり得ない。狙っているのは、夜陰に乗じた全艦隊による強行突破……死中に活を求めるはずよ」



 ニコラは薄く笑い、ワインを一口含んだ。



「なるほど。あえて煌々と灯を灯し、油断を誘って深夜にすり抜ける……。英雄らしい、博打のような一手ですね」




「……ふふ」



「なに、ニコラ?」



「いえ、ふと思い出したのですよ。『ガリバー旅行記』にある、空飛ぶ島ラピュタのエピソードを。あのアダマントの底を持つ島は、地上の反乱を鎮める際、自らの巨体で日光を遮り、さらには上空から巨大な『石』を落として街を粉砕した……一方的な蹂躙ですよ」




 ニコラは氷のような微笑を浮かべ、窓の外、カディスの夜の街並みを指差した。




「今かつてないほど肥え太り、それを守るためなら何でもする『石』が転がっています。……そう、スペイン海軍という名の、最高に動かしやすいいしたちが」




 シャルルは、ニコラの意図を即座に察した。




「……ヴィルヌーヴ提督ではなく、グラビーナやディエゴにやらせるのね。ふっ、さすが文官ね」




「慎重すぎるヴィルヌーヴ提督に許可を求めては、ネルソンの影に怯えて機を逃すだけだ。ならば、女神の恩義に燃え、自分たちの利権を守ることに必死なスペイン軍に『自主的な防衛』をさせればいい。彼らにとって、ネルソンが海路を塞ぐことは、明日からのシェリー酒と銀貨が消えることを意味しますからね」




 ニコラはグラスを置き、地図上のジブラルタルを指先で弾いた。




「ネルソンが灯りを囮に動き出す前に、私がディエゴたちに『石』を投げさせましょう。フランス軍の正式な命令系統を通さず、カディスの民衆とスペイン兵の『義憤』として。……空飛ぶ島が石を落とすように、逃げ場のない海峡で奴らを袋叩きにするのです」



 シャルルは、しばし沈黙した。 



 それは軍事的な「勝利」を求めるものではない。自軍の損傷を最小限に抑えつつ、同盟国を盾にして敵の喉元を焼き切る、あまりにも不誠実で完璧な「停滞」の形。



「……貴方、本当にルブランに似てきたわね。いいわ、ニコラ。この海の『ラピュタ』の底を操るのは、貴方に任せる」




「光栄です、提督。……貴方とルブラン行使の代わりに、私がこの街の『毒』をすべて飲み込み、ネルソンの墓標を築いておきましょう」




 ニコラは立ち上がり、静かに執務室を去っていった。




 扉が閉まったあと、シャルルは一人、夜の海風に髪を揺らせた。




(……ごめんなさいね、ネルソン提督。貴方の誇り高き博打は、一人の『公使』という名のペテン師によって、ただの石つぶてで終わる運命よ)




 1804年2月、最後の夜。



 カディスの海に、見えない巨大な石が振り上げられようとしていた。


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