第113話:獅子の檻、不在の代償
1804年2月末。
カディスの海を覆っていた冬の重い雲が、僅かに切れ始めた。
だが、海面に差し込む頼りない陽光とは裏腹に、司令部内には物理的な質量を持った沈黙が横たわっている。
カディス海軍工廠、司令官執務室。
重厚な扉の向こう、開かれたままの窓から入り込む海風は、まだ刃物のように鋭い。
部屋の隅に直立するアドリアンは、主であるシャルルの背中に、かつてないほどの峻烈な「軍人の気配」を感じていた。
今日のシャルルは、華やかな香水も、場を茶化すおねぇ言葉も、クローゼットの奥に封じ込めている。
帝国軍の制服を寸分の乱れなく纏い、地図を見下ろすその眼差しは、もはや「提督」を演じているのではない。
文字通り、この海の守護神としての冷徹な意志そのものだった。
やがて、重い足音と共にヴィルヌーヴ提督が入室した。
エミール特使とニコラが命を懸け正式に締結まで結び、この巨大な連合艦隊の指揮を託された男。
だが、その顔色は2月の海よりも暗く沈んでいる。
シャルルは一歩前へでてその所作一つで、冷え切った室内の空気を掌握する。
「……ヴィルヌーヴ提督。いよいよ、冬が終わります」
シャルルは静かに、だが部屋の奥底まで響くような低い声で切り出した。
「ジブラルタルのネルソン。彼はこの秋、我々の奇襲により4ヶ月の間袋のネズミ……。ですが提督海が落ち着き、春の風が吹き始める3月を前に、獅子は間違いなく檻を破りに来ます。屈辱に耐えかねた英雄ほど、恐ろしいものはありません」
シャルルは地図上の駒を一つ、ジブラルタルの狭い入り口へと滑らせた。
「私がパリへ向かっている間、貴方に求めるのは『勝利』ではありません。徹底的な『停滞』です。……一隻の小舟も、一通の書簡も。この海を文字通り『死の静寂』で満たし、イギリスの動脈を締め上げ続けていただく。それが、パリで待つ閣下への、唯一の忠誠の証です」
「わ……わかっている。だがシャルル、君たちがピレネーを越えるという情報は、既にイギリス側に漏れている可能性がある。アーサーというあの側近の男……。海が塞がれたなら必ず陸で仕掛けてくるぞ」
ヴィルヌーヴの震える声に、シャルルは表情一つ変えず応えた。
「ええ。あちらが泥にまみれてまで追いかけてくるというなら、返り討ちにするまで。……提督。貴方のその『慎重さ』は、今、イギリスの焦燥を煽る最強の凶器となります。……私たちがパリで新たな時代の幕を開けるまで、この海を『檻』のままに。……よろしいですね?」
2月末の冷たい風が、地図を僅かに揺らした。
それは、司令官への確認という形式をとった、絶対的な最後通牒だった。
同じ頃、ジブラルタル要塞。
アーサー・ウィンストンは、窓の外の荒れた海を捕食者のように睨みつけていた。
その体には、主従を逆転させた成瀬から刻まれた、激しい打擲の痕が体に残っている。
(……ルカはフルトンとポルトガルに密航し、もう私には予言の書はない。ルブランという特使も仕留めきれず、後がない。だが……)
アーサーの脳裏には、自分を足蹴にし、理解不能な「異国の言葉」で蔑み、傲慢に笑っていた成瀬の姿が焼き付いている。
恐らく本来の成瀬の中に眠っていた、怪物が目覚めたのだ。
「……私の盤面を汚し、私に汚名を着せようとする、カディスの女神。……必ずピレネーで仕留める。でなければ、私は成瀬という新しい主人に、首さえ差し出せなくなる」
愛する「ルカ」を失い、代わりに「マスター」を得たアーサー。
もはや軍人としての矜持などどこにもない。
彼はただ、歪んだ愛と忠誠を証明するため、なりふり構わずピレネーの雪山に暗殺の手を伸ばそうとしていた。
一方、カディスの隠れ家。
出発を前に、渚は不安げに窓の外を見ていた。
「……なんか、すごく空気がピリピリしてる。シャルルさん、本当に行くんですよね。あの、歴史がひっくり返ろうとしてるパリに」
その背後で、ジャンが診察カバンを強く握りしめる。
「安心しろ。まだ怪我も完全には治ってない……道中の管理は俺に従えよ」
2月が終わり、3月という嵐の季節が幕を開けようとしていた。
黄金と女神を乗せた馬車が、カディスの潮騒を背に、泥濘の北へと走り出す。




