第112話:女神降臨、不誠実な救済
不衛生なパリとは違い、カディスの柔らかな海風が街中を吹き抜けている。
エミールは、膝の上に置いた十キロの金貨袋を、折れそうな腕で必死に抱え直していた。
隣には、マドリードを恐怖に陥れた男・ニコラが、相変わらず汚れ一つない姿で優雅に座っている。
だが、流石のニコラも目元には、最短距離を駆け抜けてきた鋭く乾いた疲労が滲んでいた。
(ルブラン公使がカディスに長らく留まった理由が分かるな。腐臭の無い良い街だ……)
「……いいですか、エミール君。あなたは『特使』です。鼻水を啜るのも、その貧乏ゆすりも、今は封印なさい」
「わ、わかってますぅ……! でも、相手はあの『死神のルブラン様』が信頼する提督なんですよね? 怖い人だったらどうしよう……」
馬車が止まる。
エミールは意を決し、ニコラに促されて馬車を降りた。
目の前には、白壁が眩しい隠れ公使館。
その重厚な扉が開くと同時に、エミールは全権委任状と正式に結ばれた連合艦隊の書類を胸に抱え、精一杯の声を張り上げた。
「パ、パリより、ボナパルト閣下およびルブラン公使の命を受け、特使として参りました! エミール・ベルトランです! ナギ様をお迎えに……ひぎぃっ!?」
口上を述べ終える前に、エミールの視界は「巨大な壁」に遮られた。
目の前に立ちはだかったのは、アドリアンだ。その彫刻のような美貌と、見上げるほどの圧倒的な体格に、エミールは危うく腰を抜かしそうになる。
「……パリからの特使か。ご苦労。俺は護衛を務める副官アドリアンだ」
「あ、あ、アドリアン様……! は、初めましてぇ……っ!」
その背後から、さらに強烈な「圧」を放つ香水の香りと共に、一人の人物が歩み寄ってきた。
「あら。ルブランが送ってきたのは、ずいぶん可愛らしい『雛鳥』じゃない」
深紅の扇子を揺らし、男装の麗人とも、妖艶な淑女ともつかぬオーラを纏ったシャルルが、エミールを上から下まで値踏みするように見つめる。
「シャルル提督よ。……ニコラ、こんな頼りない子によくここまで辿り着いたわね?」
「ええ。案外、この種の小動物は生存本能だけは強いようでして」
ニコラが肩をすくめる。エミールは巨人たちに囲まれ、今にも泣き出しそうだった。
「あ、あの、シャルル様! これ、スペイン政府から……その、英国病の……じゃなくて、ナギ様を安全に運ぶための『誠意』として、ニコラ様が回収してきた金貨です!」
ドン、とテーブルに置かれた黄金の袋。
その重みと、金貨が触れ合う鈍い音に、シャルルとアドリアンが目を見張る。
「……これだけの額を、よくマドリードから毟り取ったわね?」
「ニコラ様が、もし断るなら『マドリード病』と歴史に刻むって脅したからで……ひいいいっ!」
エミールが口を滑らせた瞬間、ニコラの氷のような視線が突き刺さる。
そんな騒がしい広間の奥から、レオノールに背中を押されるようにして、一人の少女がおずおずと現れた。
「……あの、何か凄く賑やかですけど……お客様ですか?」
エミールの動きが止まった。
そこにいたのは、パリの最新流行――エンパイア・ドレスを纏った渚だった。
あまりの透け感に羞恥心が限界突破した彼女は、胸と股間を両手で隠し、内股をぎゅっと閉じて、モジモジと震えている。
「ちょこ……ちょこ……」
一歩が大股にならないよう、まるで氷の上を歩くペンギンのような、慎ましすぎる歩幅。
逆光に照らされたその姿は、海から上がり、羞恥に震える「ヴィーナス」そのものだった。
「……あああ」
エミールの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「ひぃ! え? な、なんですか??!」
あまりの尊さ。
あまりの儚さ。
ピレネーの雪も、バディストの筋肉も、ニコラの呪いも、すべてはこの一瞬のためにあったのだ。
「ああ……あああああ! 女神様……! 本当に、実在したんだ……っ!!」
膝から崩れ落ち、鼻水を垂らしながら、エミールは渚の足元へヨロヨロと這いつくばった。
「僕は死んだんですね……。天国へ来たんですね……。こんなお淑やかで、淑やかな……本物の女神様に会えるなら、もう処刑されても悔いはありません……っ!!」
「ちょ、ちょっと待って!? 何!? アドリアン、助けて!!」
怯えて後ずさる渚。
アドリアンも騎士として、この様子のおかしい少年に、特使だろうが知ったこっちゃないと斬りかからんばかりの勢いだ。
だが、その逃げ惑う動作さえも、ドレスの制約で「超絶お淑やか」に見えてしまい、エミールはそのまま尊さのあまり床に沈んだ。
「キモいですよ、エミール君。……不快ですから、そのまま死んでいなさい」
ニコラは冷たく言い放つ。
だが、その瞳は、羞恥に震える渚の姿を、まるで宝石を鑑定するような鋭さで射抜いていた。
ニコラの手のひらには、道中、馬の手綱を握りしめ続けたためにできた生々しい豆と、凍傷の跡が残っている。
彼もまた、エミールの首と、そして自分自身の命をチップにして、このマドリードまでの死路を駆け抜けてきたのだ。
(……なるほど。ルブラン。お前が閣下を動かし、ピレネーを檻に変え、帝国の命運を賭けてまで守ろうとした理由が分かった。この少女一人で戦局が変わる!)
ニコラは、恥じらう渚を見つめ、静かに、深く納得した。
(これは単なるお伽話ではない。……お前は『凄まじいジョーカー』を手に入れたのだな。……私の命を賭けるに値する、最高の切り札を)
ニコラは一度だけ目を閉じ、自分の中に燻っていた「死への覚悟」が、確信に変わるのを感じた。
「よ、ようこそ、エミール特使。そして……ニコラ様。あ、あなた達をお待ちしておりました……ですのよ」
渚はシャルルに叩き込まれた、社交界で通じる挨拶を、震える声で絞り出した。
シャルルが扇子で口元を隠し、妖艶に微笑む。
「準備は整ったわ。……さあ、この『慎ましすぎる小鳥』を、パリの主役にしてあげようじゃない?」
鼻水を流して倒れるエミールと、顔を真っ赤にする渚。
不誠実な保護者たちが作り上げた「檻」の先に、今、本物の物語が幕を開けようとしていた。




