第110話:泥濘(ぬかるみ)の癒着、保護者達の熱度
吹き荒れる雪を切り裂き、少数の従者と共にマドリードを目指す影があった。
ニコラだ。
道中、夜盗や工作員に襲われれば一貫の終わり。だが彼は、凍てつく闇を最短距離で駆け抜けた。
「私はルブラン公使と違い、馬の扱いには長けています。……安心しなさい。私はこんな場所で朽ちる人間ではありません」
その瞳に迷いはない。
「雪山で死ぬような人間は、あの革命の狂気の中でとっくに死に絶えているのですよ」
脳裏に浮かぶのは、バイヨンヌに残してきた不憫な教え子の顔だ。
(「エミール君、私がなぜ泥にまみれて雪山を駆けるか分かりますか? 私が一日早くサインをもぎ取れば、フランス兵が千人生き残り、三日遅れれば国が滅ぶ。……外交とは、優雅な晩餐会のことではなく、この泥と血の混じった雪道を誰よりも早く駆け抜けることなのです」)
2月22日、日没。情報の回廊が繋がった瞬間。
バイヨンヌからイリュンへの、死の48時間が始まった。
先発部隊が狂気的な速度で雪を固め、均していた。
エミールたちが通る道は、後続の補給路ではない。ただ一人の「偽りの特使」をデッドラインに間に合わせるためだけに、数千人の兵が踏み固めた泥と氷の「王の道」だ。
道中、争った形跡は至る所にあった。
だが、死体も怪我人も転がっていない。
バディストの部下たちが、エミールの視界に入る前にすべてを雪の下へ「埋め立てて」いたからだ。
ニコラの『エミールにはまだ汚いものは見せるな』が徹底させれていた。
「……あ。また、岩がどかされてる……」
「ガハハ! 感謝しろエミール。お前を無傷でニコラの元へ届けるのが、俺たちに課された『回路』の維持だからな!」
バディストの太い腕の中に収まり、馬の揺れに身を任せる。
死の行軍のはずなのに、兵たちが命懸けで整えたこの道の上だけは、皮肉なほどに「暖炉」のように温かかった。
(……ニコラ様はどうだったんだろう)
自分にはバディストがいる。数千人の兵が踏み固めた道がある。
けれど、ニコラにはそんな配慮など一欠片もなかったはずだ。
彼が駆けたのは、本当の意味で孤独な、死と隣り合わせの獣道だったに違いない。
そして、パリで盤面を操るルブラン公使も。
かつて死地から生還した彼は、今もなお、血の流れるような激務の中にいる。
彼らは皆、自らの足で立ち、自らの血を流しながら、この国を影から護る「強固な柱」なのだ。
それに引き換え、自分はどうだ。
「特使」という虚飾を纏い、最強の盾に守られ、精密な地図に導かれている。
ただ、生かされているだけではないか。
(僕は……いつか、彼らのようになれる人間なのだろうか)
国を動かす者たちの背中は、あまりに遠く、圧倒的に強かった。
バディストの温もりに安らぐほどに、自分がまだ彼らの土俵にさえ立っていない事実が胸に突き刺さる。
だが、今はただ、この「与えられた道」を全力で駆け抜けるしかない。
いつか、あの氷の瞳を持つニコラと対等に並び、不誠実な冗談を言い合える日のために。
2月24日、日没数分前。イリュン検疫所、予定地。
泥濘を蹴り立て、ボロボロの荷馬車隊が滑り込んだ。
バディストの腕から崩れ落ちるように降りたエミール。
48時間の雪山強行軍。
その心身は限界だった。
「ハァ……ハァ……ニコラ、様……っ。ま、間に合い、まし、た……!」
暗がりの向こうから、一人の男が歩み寄る。ニコラだ。
彼は極寒の地にあってなお、背筋を氷の柱のように伸ばし、その装いに一切の乱れも、汚れもなかった。
(ああ……そうだ。ルブラン様も言っていた。「正装こそが信頼の証である」と)
水面下でどれほど泥臭く、死に物狂いで足を動かしていても、彼らは決してそれを表に出さない。
優雅な姿を崩さず、静かに、だが確実に獲物を仕留める。
水中で足掻く足を隠す「白鳥」のような生き物なのだ。
「おや。想定より、汚らしい姿ですね」
その冷淡な声を聞いた瞬間、エミールのダムが決壊した。
物理的な熱ではなく、この地獄を終わらせてくれる唯一の正解に、魂が救いを求めた。
(ああ、生きている。わかっていたけれど、この人が、立っている)
エミールは弾丸のようにニコラのコートへ突っ込み、顔を埋めた。
ニコラは拒絶もせず、ただ静かにエミールを「抱き止めた」。
その体温は、暖炉のような温かさではない。
手順3:信じられる者の『言葉』を疑い、本質を見極めろ
(「土壇場であなたを救うのは、耳に心地よい誓いではなく、離れられぬ『物理的な癒着』です。迷わず服を掴み、あなたの汚れをすべて塗りつけなさい。共倒れの恐怖こそが、裏切りを防ぐ最強の鎖となるのですから」)
だが、たった一人で戦い抜いてきた男の、決して消えない「芯の熱」があった。
「……よくやりましたね、エミール君」
一度だけ、強く背中を叩く。
その衝撃が、エミールに生存を確信させた。
しかし、顔を上げた瞬間に、ニコラの表情は絶対零度まで凍りつく。
「…………エミール君」
「ひ、ひぐっ……なんですかぁ……?」
「私のコートに、……鼻水がつきました」
「えっ」
「やめてください。今すぐ離れなさい。……そして、死になさい」
「ひ、ひいいいいい!! ごめんなさい! 拭きます、僕の袖で拭きますからぁぁ!!」
深夜の国境沿いに、エミールの悲鳴が響き渡る。
その背後では、ニコラがマドリードから連れてきたスペインの職人たちが、フランスから運ばれた資材を、鮮やかな手つきで組み上げ始めていた。




