第109話:双方向の伝令、生死を分かつ八日間
「……ニコラ様。これ、本当に『病院』なんですか……? いや、表向きが病院なだけで、裏は捕虜収容所だとは解っています……でもこれはあからさますぎます!」
エミールは、広げられた図面を指差す手が小刻みに震えるのを止められなかった。
そこに描かれていたのは、病を癒やすための静養所ではない。
「この設計……強制吸気口に、中からは決して開かない密閉窓。おまけに、この回廊は視線を遮断するように設計されている。これじゃあ、これじゃあ収容所とも呼べない……! ただの、拷問するところだ……っ!」
悲痛な叫びを上げるエミールに対し、ニコラは表情一つ変えない。
優雅に足を組み直し、手元の懐中時計の蓋を「カチリ」と鳴らして閉じた。
「――おやおや。どうやら、あなたの無意味な悩みに付き合っている時間は、もう一秒も残っていないようですね」
「え……?」
「その『病院』とやらをどう運用するか、図面はあなたに託します。最終的な判断も、あなたに任せましょう」
ニコラは立ち上がり、椅子にかけていた重厚なコートを羽織った。
その冷徹な瞳が、ソファに座り込むエミールを射抜く。
「……え? ええっ? 任せるって、ニコラ様は……」
「ここからが本題です、エミール君。私は今から、単身でマドリードへ向かいます。三月の物流再開までに、あちら側――スペイン側の検疫所も開所させ、こちらと同期させなければならない。片側だけが閉まった門など、ただの障害物ですからね。……ということで、その懐にある『全権委任状』を貸しなさい。マドリードで『特使の代理』として、さっさと承認をもぎ取ってきます」
「え……? 独りで、ですか? この雪の中を?」
「私はルブラン公使と違い、馬の扱いが得意ですので。念の為数人バディスト殿に護衛は頼んでいます」
エミールの喉が、カフェオレの甘さとは別の理由でヒクリと跳ねた。
「えっ!?でも、 こ、これがないと、僕は……僕の身分はどうなるんですか!? ただの小僧になってしまいます! そうなればバディスト様に……!」
ニコラは旅装を整えるために背を向けた。
その声は、窓の外の雪よりも冷たく響く。
「いいですか。八日後、パリへ放った早馬がバイヨンヌへ戻り、同時にマドリードの私から『手続き完了』の伝令が届く。その瞬間に、パリとバイヨンヌ、マドリードを結ぶ『情報の回廊』にエラーがなければ、あなたの首は繋がります」
「え……八日?」
「ええ。もし八日後の日没までに伝令が届かず、システムが機能していなければ、バディスト殿にあなたの首をはねろと言い置いてあります。」
「……ひっ。……ひ、ひいいいいい!!」
エミールの絶叫が執務室に木霊するが、ニコラは振り返りもしない。
鏡の前でタイを直しながら淡々と続けた。
「安心しなさい、エミール君。ルブラン公使が既に草案の時点で、マドリードの大使館には特急便で根回しを済ませてあります。今頃あちらの大使や公使たちは、私が『閣下の印籠(委任状)』を持って現れるのを、首を長くして待っている状態なのです。主要なギルドには布告済み。役所の手続きも、あとは私が現場で委任状を叩きつけ、サインするだけというところまで煮詰めてあります。……私がマドリードへ行くのは……、いわば『爆薬が詰まった樽に、火をつけに行く』ようなものです」
ニコラは手袋をはめ『全権委任状』を、まるで紙屑でも拾うかのようにエミールの胸元から抜き取った。
「ですから、私は『最短距離』を走ると言っているのです。物流が滞れば、エミール君あなただけではない。私もルブラン公使も首が飛ぶ。本来の手続きという名の無駄な儀礼を、この印籠で全て踏み倒す。……さあ、八日後の夕暮れを楽しみしていてください。」
その背後に、巨大な影が音もなく並び立った。
バディストは自慢の剛剣の重みを確かめるように、親指でその刃をなぞった。
「ガハハ! 心配するなエミール。伝令が来なかった時、お前の首は俺が責任を持って飛ばしてやる。」
「……ああ、言い忘れましたが、宿場町の馬は全て私が『特使権限』で押さえました。あなたが逃げようとしても、替えの馬は一頭もありませんよ」
印籠を失い、処刑人バディストと二人きりになった、泣きべそをかく「偽りの特使」をニコラが冷たく見下ろした。
「私が出立した直後から、バディスト殿と共にバイヨンヌに残る以外の者以外で部隊を三つ編成しなさい。『アスカン検疫所』部隊、『聖エミール病院』石工師団部隊、建築資材と軍医、そして画家のピレネー越えをする『イリュン検疫所』混成部隊です。私がマドリード側を整えた頃に、あなたがこちら側の『資材』を物理的に担いで合流は果たさねばいけません。……八日後のデッドライン、そこから『イリュン』での合流が最終な期限です。遅れれば……システムエラーとして、10日後のあなたの居場所が処刑場に変わるだけです」
「では……前進!」
嘶きとともに颯爽と出て行く。
「ひ、ひいいいぃぃ!!」
ニコラが走り去るのを見届けると、エミールの背後でバディストが野太い笑い声を上げた。
「ガハハ! 面白くなってきたなエミール! さあ、泣いている暇はないぞ。野郎ども! 特使閣下のお言葉だ! 今すぐ木材を馬車に積み込め! 運べない奴は俺がこの雪の中に植えてやる!」
バイヨンヌの広場にエミールの悲痛な号令が響き渡った。
ニコラの馬蹄が消えてから、一分一秒を削る戦いが始まった。
「いいですか! 八日後にパリからの早馬が戻り、マドリードのニコラ様から『許可』の知らせが届く。その瞬間から、ここバイヨンヌとパリ、マドリードが一本の線で繋がらなければならないんです! 二つの伝令が届いた瞬間に僕らが出立できないようなら、その時は僕の首と一緒に皆さんもここで雪だるまになってもらいますからね!!」
バディストは、ニコラから預かった「処刑用」の砂時計をエミールに手渡す。
「ガハハ! いい気合だエミール。パリのルブラン公使が動かし、マドリードのニコラこうがこじ開ける。その二つが噛み合う瞬間に、お前という『本体』が動けなかったら……そりゃあ、致命的なエラーだな」
エミールは、震える手でルブランから預かった「重い金貨の袋」を掴み、現場に叩きつけた。
もはや、人道的で清潔な病院へのこだわりなど、恐怖の彼方に吹き飛んでいた。
あるのはニコラが待つマドリードへ、『生きて』辿り着くという生存本能だけ。
冬の寒さで凍えぬよう石工たちには高価な酒と毛皮を手配、これから徹夜で人相書きを作る画家たちには、喉が焼けるほどの甘いカフェオレの材料を。
バイヨンヌの港と街道は、深夜まで松明の火が途絶えることはなかった。
エミールは管理簿と、刻一刻と落ちる砂時計を交互に見つめる。
北からの「承認」と、南からの「鍵」。その両方が揃うまでの、地獄のカウントダウン。
2月15日
『アスカン検疫所』部隊出立。
2月16日
『聖エミール病院』石工師団部隊が出立。エミールは図面を軍の建築担当に託し、「リフォームはあとからでもできる」と自分に言い聞かせた。
2月18日
『イリュン検疫所』混成部隊の本隊が出立。エミールはバディストと共に、特使府で運命の時を待つ。
2月22日、八日目の夕暮れ。
バイヨンヌの北の街道から、一騎の早馬が。
ほぼ同時に、南の山道からニコラの紋章を掲げた伝令が、雪煙を上げて飛び込んできた――。
情報の回廊は、今、繋がった。




