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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第六章:パリ凱旋とピレネーの檻

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第108話:揺りかごの終焉と、最凶の目覚まし

 深夜のバイヨンヌ。





 特使府の門前に、地響きのような蹄の音が止まった。






「ガハハ! 着いたぞ特使殿! ……ん? おい、エミール」





 バディストが声をかけるが、腕の中のエミールはぴくりとも動かない。





 それどころか、将軍の高級な軍服の胸元に、一筋のよだれの跡を刻みながら、信じられないほど安らかな寝息を立てていた。





「……寝おったか。まあ、あのスパルタ教育の後にこの強行軍だ。よく持った方だな」





 バディストは苦笑し、エミールを「壊れ物」でも扱うようにそっと抱え直した。





 そのまま、抜き足差し足(を試みる巨人の歩法)で特使府の中へと運び込む。





 運ばれたエミールは、執務室のソファで泥のように眠りこけていた。





 その寝顔を、ニコラは静寂の中で見下ろしている。




 月光に照らされたニコラの唇が、わずかに弧を描いた。





(――エミール君、あなたはどうやら『政治的借金』という概念を、これっぽっちも理解していないようですね)





 その微笑には、一滴の慈悲も含まれていない。




 ニコラは音もなく歩み寄ると、手袋を外した指先で、エミールの細い首筋にそっと触れた。





 指先一つに力を込めるだけで、呼吸を止めるのは容易い。





(石工ギルドを力押しで解体し、市長への表敬訪問を無視し、司令官の頭越しに兵を動かす……。あなたが此処に来てから『すっ飛ばした』公的な手続きの数は、普通の役人なら三回は処刑される量ですよ)




 ニコラの指が、エミールの喉仏をなぞるように滑る。




 まるで、そこに「見えない縄」があるかのように。




(あなたが爆睡している間も、ルブラン公使がパリから各所に根回しした書簡は働いています。ですが、書類で防げるのはせいぜい表向きの反発だけ。……あなたが無視した連中は、今この瞬間も、影であなたの『寝首をかく』機会を狙っていますよ。特使閣下)




 ニコラの手が、エミールの首から離れる。




「……いいですか? あなたは今、全権委任状という名の『閣下の信用』を担保にして、莫大な借金(貸し)を作っている自覚を持ちなさい。その首が胴体と繋がっていられるのは、ひとえに閣下の寛大さと……私の『忍耐』のおかげなのですから」




 昏々と眠るエミールは、自分の首筋に残る「冷たい指の残痕」が、どれほど重い死の宣告であるかも知らずに、ただ安らかな寝息を立て続けていた。





 翌朝、午前十時。




「……ん、んん……。ふかふか、だ……」




 エミールは、数日ぶりに感じる「水平な場所」の感触に、幸せを噛み締めていた。




 夢の中では、甘いチョコレートの香りに包まれ、ニコラ様もルブラン様もいない、平和な世界。




だが、現実は残酷だった。




(……あ、あれ? 僕、は……?)




 逆光の中にそびえ立つ、巨大な影。




 それは執務室の天井まで届きそうなほどに高く、冷たく、圧倒的な威圧感を放っていた。




「……巨人の国の、支配者様……?」





 エミールが寝ぼけ眼でそう呟いた瞬間。




 影がわずかに動き、優雅に組まれていた足が解かれた。




「――おや。いつまで、心優しき『グラムダルクリッチ』の腕の中にいるつもりですか、エミール君」




 氷柱で耳を貫かれたような、穏やかで慈悲のない声。




 エミールが跳ねるように目を開けると、そこは豪華な客間の寝台……ではなく、執務室の硬いソファの上だった。




「ひ、ひいいぃっ!? ニ、ニコラ様……起きてたんですか!?」




「当たり前でしょう。あなたがバディスト殿という『心優しき乳母グラムダルクリッチ』に抱かれ、ヨダレを垂らして夢を見ている間に、私はこれを完成させておきましたよ」




 ニコラがそう言うと同時に銀のトレイをエミールの目の前に置いた。




 そこには、湯気が立ち昇る一杯の大きなボウルが載っている。





「……? なんですか、これ」





「特製カフェオレですよ。さあ、一気に飲みなさい」




 エミールは言われるがまま、両手でボウルを掴んで口をつけた。




 それは、濃縮されたコーヒーをミルクで割り、さらに一袋分はあろうかという砂糖が「どばどば」に投入された、粘度すら感じるほどの液体だった。 




「――っ、ぐ、ぐあぁぁぁあ!! あ、甘い! 甘すぎますニコラ様ぁ!! 喉が焼けるぅ!!」





「いいでしょう? 極度の低血糖と疲労には、理性を焼き切るほどの糖分が最も効率的だ。ほら、これで脳が冷める(覚醒する)でしょう」




 ニコラは悶絶するエミールの背中を、慈悲のかけらもない力強さで叩いた。




 強制的に叩き起こされた心臓が激しく脈打ち、エミールの視界から先ほどの「天国の夢」が霧散していく。




窓の外にはニヴ川がキラキラと輝き、バスク特有の赤い木組みの家々が美しく並んでいた。




「……きれいだなぁ。落ち着いてみたらバイヨンヌって、こんなに素敵な街だったんですね」




 エミールの場違いな感嘆に、ニコラは冷たく微笑んだ。




「ええ、死に場所としては最高に贅沢なロケーションでしょう?」





 ニコラは、手にしていたティーカップをソーサーに置くと、エミールの顔のすぐ横に、「バサリ」と一枚の大きな図面を広げた。




「残念ながら、私は小人を可愛がる少女ではありません。……せいぜい、迷い込んだあなたを標本にするか、檻に入れるかを選別する、この国の王といったところでしょうか」




 ニコラの指が図面をなぞる。そこには、精密に書き込まれた『聖エミール』の最終図面があった。




 エミールの草案はニコラの手によって、完璧な換気システムを備えた「精神解体場」へと昇華されていた。




「人道的で、清潔で、外界から完全に遮断された『聖域サンクチュアリ』の完成予想図です。工事は今日から、あなたの『石工師団』が24時間体制で始めます」




 エミールは、図面の端に記された「強制吸気口」や「密閉式の窓」の設計を見て、背筋に冷たいものが走った。




「ニコラ様……これ、本当に『病院』なんですか……?」




「ええ。少なくとも、書類上はね」



 と、また足を組み優雅にティーカップへ口を付ける。

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