表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第六章:パリ凱旋とピレネーの檻

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

111/139

第106話:聖エミールと生きた餌

 エミールは、手帳を片手に羊飼いたちの輪の真ん中で忙しなく立ち働いていた。





「……ええ、そうです! 羊の世話で残る二名以外の方は、明後日までに山を降りてください!麓の村の入り口で、この木札を門番に見せてくれれば、すぐに暖かい宿舎へ案内させます! 宿舎は二階建てで、各部屋に鉄製のストーブがありますから、安心して軍に売却してください。相場より一割……いえ、二割増しで買い取ります!」




 農民たちともトウモロコシや越冬用の豆の在庫について、まるで市場の商人のように熱心に語り合っている。





 その和やかな喧騒から少し離れた岩陰で、ニコラとバディストは視線を交わした。





「……気づいたか、ニコラ殿」





 バディストが馬の鞍を締め直すふりをしながら、低く野太い声で囁く。





「ええ。三列目、左から二番目の若い男ですね。エミール君が『イギリスの工作員を教えろ』と言った瞬間、彼は懐の何かに触れ、地面を見ました」





 ニコラは手帳にペンを走らせているが、その視線は一度も紙面を見ていない。





 冷徹な眼差しには、エミールの背後でそわそわと動くその男の姿が、鮮明に映り込んでいた。






「あの男、既に『前金』を受け取っているな。特使殿がばら撒いた『未知の贅沢』よりも、今懐にある数枚のポンド銀貨のほうが重いらしい」




「どうする。今ここで、特使殿の目の前で首を撥ねておくか? 見せしめとしては上等だ」




 バディストが事も無げに恐ろしいことを言うが、ニコラは僅かに首を振った。





「いいえ。そんなことをすれば、せっかくエミール君が築いた『救世主の仮面』に血が飛び散ります。……彼はまだ、自分がどれほど残酷な仕組みを作ったか自覚していない。その『無垢な有能さ』は、今はまだ守るべき価値がある」





「……ふん、過保護だな。では、あのネズミを放っておくのか?」





 ニコラは、ここで初めてエミールの方を見て、薄く笑った。





「いえ。逃がしませんよ。……彼はエミール君が給料三ヶ月分を叩いて雇った『スタッフ』なのですから、しっかりと働いてもらわねば。……イギリス軍を、我々が望む『袋小路』へとおびき寄せるための、生きた餌としてね」





 その時、商談を終えたエミールが、顔を輝かせて駆け寄ってきた。




「ニコラ様! 将軍! 見てください、これだけの人が協力してくれるって! 僕、なんだかピレネーに新しい友達がいっぱいできた気分ですぅ!」





 バディストは豪快にエミールの頭を撫で、ニコラは優雅に微笑んだ。





「ええ、素晴らしい。……あなたの『お友達』が裏切らないよう、私もしっかりと見守らせていただきますよ」





 ニコラは手元の懐中時計を閉じ、唇をわずかに吊り上げた。





「……さて時間ですね。戻りましょうか、エミール君」




「え? もうですか!? ニコラ様、まだここで条件の最終確認や、木札の交付なんかも僕がやらないと……」




「いいえ。現場の采配は、ここに残す将軍の部下たちに任せればいい。……彼らが一番『英国病』の扱いには慣れていますから。それに、あまり遅くなるとルブラン公使のように滑落死しますよ?」




「い、生きてます!!死斑はありますが、あれは幽霊ではありません!」





 ニコラは、岩陰でバディストと視線を交わし工作員の男を顎で示した。





 その双眸は、獲物を狙う毒蛇のように冷たく、一切の感情を透かさない。





「あなたはまだまだ、やることがあります。……そう。『聖エミール・英国病隔離病棟』の設立について、ね」





 エミールの動きが止まった。





 数秒の沈黙の後、ピレネーの山々に情けない悲鳴が木霊した。






「な、な、なんですかぁその名前! やめてください! 汚名じゃないですかぁ!」





「汚名? とんでもない、聖名ですよ。将来、イギリスの者たちがその名を聞いただけで、己の罪を悔いて震え上がるほどのね」





 涙目で抗議するエミールを、ニコラは慈愛に満ちた眼差しで軽くいなす。




「や、辞めてくださいよ!汚名を歴史に刻むよう言い方は……!」




 傍らでは、バディストが既に馬に跨り、太い腕を差し出していた。





 帰りもまた、バディストの馬の前に座らされての道中だ。





「さあ、早く乗りなさい。バディスト殿の胸元なら、エミール君が『安心する』と言ったあの匂いがまた嗅げますよ」





「……っ! ニコラ様、からかわないでください! 将軍は……その、あ、安心感があるだけですぅ!」





 顔を真っ赤にしながら、エミールはバディストの差し出した手を取り、その逞しい胸元へと引き上げられた。




「ははは! 好きなだけ嗅いで温まれ! 俺の体温は逃げんぞ!」




 バディストの笑いは豪快だが、その手つきはどこか過保護だ。





「さあ、行きましょう。バイヨンヌに戻り、詳細な設計図について打ち合わせをしなければ。……非常に良いものができました。私の自信作ですよ」





 ニコラは、自分の馬に乗りながら、懐から一枚の図面を取り出した。





表向きは、最新の換気システムを備えた、清潔で人道的な隔離病棟。





 だがその実態は、気密構造で「水銀の蒸気」を室内に滞留させ、肉体を傷つけず、ただ精神だけを白濁させ、イギリス軍の機密をすべて吐き出させる魔法の箱。





「……ふん。綺麗な名前をつけて、中身はこれか。つくづく、頭の回る奴は恐ろしいぜ」





 バディストは、ニコラの底知れなさに毒づくように独り言を吐き捨て、馬に鞭を当てた。





「エミール君。職人たちにはこう伝えなさい」




 並走する馬の上で、ニコラはまるで宝物について語るようなトーンで言った。




「『患者のプライバシーを最優先し、外界の喧騒を一切遮断する、安らぎの聖域サンクチュアリを造れ』……とね」





「ニコラ様……。それはなんだかいい場所になりそうな気がします!」




 エミールの無垢な笑顔が、ニコラの冷徹な瞳を鏡のように映し出した。




「あなたの『お友達』が、最初の患者にならないことを祈りますよ」





 ピレネーの麓に、歴史上最も慈悲深く、最も恐ろしい「病院」が建とうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ