第106話:聖エミールと生きた餌
エミールは、手帳を片手に羊飼いたちの輪の真ん中で忙しなく立ち働いていた。
「……ええ、そうです! 羊の世話で残る二名以外の方は、明後日までに山を降りてください!麓の村の入り口で、この木札を門番に見せてくれれば、すぐに暖かい宿舎へ案内させます! 宿舎は二階建てで、各部屋に鉄製のストーブがありますから、安心して軍に売却してください。相場より一割……いえ、二割増しで買い取ります!」
農民たちともトウモロコシや越冬用の豆の在庫について、まるで市場の商人のように熱心に語り合っている。
その和やかな喧騒から少し離れた岩陰で、ニコラとバディストは視線を交わした。
「……気づいたか、ニコラ殿」
バディストが馬の鞍を締め直すふりをしながら、低く野太い声で囁く。
「ええ。三列目、左から二番目の若い男ですね。エミール君が『イギリスの工作員を教えろ』と言った瞬間、彼は懐の何かに触れ、地面を見ました」
ニコラは手帳にペンを走らせているが、その視線は一度も紙面を見ていない。
冷徹な眼差しには、エミールの背後でそわそわと動くその男の姿が、鮮明に映り込んでいた。
「あの男、既に『前金』を受け取っているな。特使殿がばら撒いた『未知の贅沢』よりも、今懐にある数枚のポンド銀貨のほうが重いらしい」
「どうする。今ここで、特使殿の目の前で首を撥ねておくか? 見せしめとしては上等だ」
バディストが事も無げに恐ろしいことを言うが、ニコラは僅かに首を振った。
「いいえ。そんなことをすれば、せっかくエミール君が築いた『救世主の仮面』に血が飛び散ります。……彼はまだ、自分がどれほど残酷な仕組みを作ったか自覚していない。その『無垢な有能さ』は、今はまだ守るべき価値がある」
「……ふん、過保護だな。では、あのネズミを放っておくのか?」
ニコラは、ここで初めてエミールの方を見て、薄く笑った。
「いえ。逃がしませんよ。……彼はエミール君が給料三ヶ月分を叩いて雇った『スタッフ』なのですから、しっかりと働いてもらわねば。……イギリス軍を、我々が望む『袋小路』へとおびき寄せるための、生きた餌としてね」
その時、商談を終えたエミールが、顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「ニコラ様! 将軍! 見てください、これだけの人が協力してくれるって! 僕、なんだかピレネーに新しい友達がいっぱいできた気分ですぅ!」
バディストは豪快にエミールの頭を撫で、ニコラは優雅に微笑んだ。
「ええ、素晴らしい。……あなたの『お友達』が裏切らないよう、私もしっかりと見守らせていただきますよ」
ニコラは手元の懐中時計を閉じ、唇をわずかに吊り上げた。
「……さて時間ですね。戻りましょうか、エミール君」
「え? もうですか!? ニコラ様、まだここで条件の最終確認や、木札の交付なんかも僕がやらないと……」
「いいえ。現場の采配は、ここに残す将軍の部下たちに任せればいい。……彼らが一番『英国病』の扱いには慣れていますから。それに、あまり遅くなるとルブラン公使のように滑落死しますよ?」
「い、生きてます!!死斑はありますが、あれは幽霊ではありません!」
ニコラは、岩陰でバディストと視線を交わし工作員の男を顎で示した。
その双眸は、獲物を狙う毒蛇のように冷たく、一切の感情を透かさない。
「あなたはまだまだ、やることがあります。……そう。『聖エミール・英国病隔離病棟』の設立について、ね」
エミールの動きが止まった。
数秒の沈黙の後、ピレネーの山々に情けない悲鳴が木霊した。
「な、な、なんですかぁその名前! やめてください! 汚名じゃないですかぁ!」
「汚名? とんでもない、聖名ですよ。将来、イギリスの者たちがその名を聞いただけで、己の罪を悔いて震え上がるほどのね」
涙目で抗議するエミールを、ニコラは慈愛に満ちた眼差しで軽くいなす。
「や、辞めてくださいよ!汚名を歴史に刻むよう言い方は……!」
傍らでは、バディストが既に馬に跨り、太い腕を差し出していた。
帰りもまた、バディストの馬の前に座らされての道中だ。
「さあ、早く乗りなさい。バディスト殿の胸元なら、エミール君が『安心する』と言ったあの匂いがまた嗅げますよ」
「……っ! ニコラ様、からかわないでください! 将軍は……その、あ、安心感があるだけですぅ!」
顔を真っ赤にしながら、エミールはバディストの差し出した手を取り、その逞しい胸元へと引き上げられた。
「ははは! 好きなだけ嗅いで温まれ! 俺の体温は逃げんぞ!」
バディストの笑いは豪快だが、その手つきはどこか過保護だ。
「さあ、行きましょう。バイヨンヌに戻り、詳細な設計図について打ち合わせをしなければ。……非常に良いものができました。私の自信作ですよ」
ニコラは、自分の馬に乗りながら、懐から一枚の図面を取り出した。
表向きは、最新の換気システムを備えた、清潔で人道的な隔離病棟。
だがその実態は、気密構造で「水銀の蒸気」を室内に滞留させ、肉体を傷つけず、ただ精神だけを白濁させ、イギリス軍の機密をすべて吐き出させる魔法の箱。
「……ふん。綺麗な名前をつけて、中身はこれか。つくづく、頭の回る奴は恐ろしいぜ」
バディストは、ニコラの底知れなさに毒づくように独り言を吐き捨て、馬に鞭を当てた。
「エミール君。職人たちにはこう伝えなさい」
並走する馬の上で、ニコラはまるで宝物について語るようなトーンで言った。
「『患者のプライバシーを最優先し、外界の喧騒を一切遮断する、安らぎの聖域を造れ』……とね」
「ニコラ様……。それはなんだかいい場所になりそうな気がします!」
エミールの無垢な笑顔が、ニコラの冷徹な瞳を鏡のように映し出した。
「あなたの『お友達』が、最初の患者にならないことを祈りますよ」
ピレネーの麓に、歴史上最も慈悲深く、最も恐ろしい「病院」が建とうとしていた。




