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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第六章:パリ凱旋とピレネーの檻

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第105話:親熊に抱かれた小人の交渉

 1804年2月13日。





 バイヨンヌでの『石工師団』編成とギルド解体から一夜。 ……いや、エミールにとっては数え切れないほどの書類の山を越えた、終わりのない夜の続きだった。





 一行は夜明け前の午前七時に出発し、アスカンよりピレネーのさらに深部へと足を踏み入れた




 先行部隊があらかじめ目星をつけていた、隔離病院の建設予定地を確認する為に。





 山道は、峻険さと共に「暴力的なまでの寒気」が支配していた。





 零下を下回る冷気が肌を刺し、英国の工作員や夜盗を警戒するバディスト将軍率いる少数精鋭の騎兵隊が、雪煙を上げて進む。





 その隊列の先頭、将軍の巨躯が跨る軍馬の上で、エミールは絶叫していた。





「ひ、ひぃぃん! さ、寒いですぅ!!! 将軍、揺れます! お尻が浮いて、もう五センチくらい宙を舞ってますぅ!!!」





 エミールはバディストの太い腕の中にすっぽりと収まり、いわゆる「前抱き」の状態で運ばれていた。馬術の怪しい特使が落馬して死なれては困るという、無骨な配慮である。





 だが、死を覚悟してバディストの胸板に顔を押し付けた時、エミールはある「違和感」に気づいた。





(……あれ? この将軍……意外に、いい匂いがする? それに……っ!)





 鼻をくすぐったのは、清潔な石鹸とかすかなシトラス、それに良質な葉巻の残り香が混じり合った、落ち着いた大人の男の香り。






 そして何より、厚い軍服越しに伝わる猛烈なまでの熱量だった。





 氷点下の山風に曝されながらも、将軍の胸板はもはや人間を越えて「生きている暖炉」そのものだった。





 エミールは寒さと恐怖で震えながらも、生存本能のままにその熱源に深く顔を埋めた。





「どうした特使殿! 黙り込んで、ついに魂でも抜けたか!」





「……い、いえ。将軍、意外とお洒落な香水を使ってるんだな、と思いまして……あと、その……すごく、温かいです……。もうここから離れたら、僕、一瞬で凍土のオブジェになっちゃいますぅ……」





 背後で手綱を捌くバディストが、豪快に笑って胸を張る。




「ははは! 兵を率いる者が悪臭を放っていては部下がついてこんからな! どうだ、俺の体温はここの誰よりも温かい! しっかり掴まっていろ!」





(意外にお茶目さんなんですね……熊みたいとか思ってごめんなさい。でも、もう五時間近く揺られてるんですけど……。バイヨンヌに、帰りたい……)





 その様子を後ろで優雅に馬を操るニコラが、感情の読めない声で呟いた。




「……まるで、冬眠中の大きな親熊に包まれている小熊ようですね。可愛いですよ、エミール君。往復十時間を超える雪山の強行軍です。熊の芳香の中で絶叫できて良かったですね」





「か、可愛くないですぅ……! そんなに余裕があるなら、下山はニコラ様のに乗せてくださいよぉ!」





「お断りします。私はまだ、あなたを守る『親熊』ではありませんので。下山もその……暖炉のような熊に、しっかりと抱かれていてください」




 正午。




 日没までのタイムリミットが刻々と迫る中、一行は街道を一望できる高台へと辿り着いた。





 岩肌にしがみつくようにして羊飼いたちの石造りの家が数軒並んでいる。






 バディストに「よっこらしょ」と荷物のように地面へ降ろされたエミールは、生まれたての小鹿のように膝をガクガクさせながらも、すぐさま特使の顔に戻った。






 午後二時にはここを発たなければ、暗い山道で滑落死する。





「……ここですね。良さそうな場所です!」





手順2:敵に「特権」を握らせ、逃げられぬ共犯者に仕立てよ




(「エミール君、力で従わせただけの民は、隙あらば背中を刺します。彼らを真に従わせるには、奪った物以上の『小さな特権』を与えなさい。それを握らせた瞬間、彼らは持たぬ者に対して優越感を抱き、その特権を守るために必死で我々に尽くす『忠実な門番』へと成り下がるのです。」)





 騒がしい様子に、羊飼いたちが警戒しながら家々から出てくる。





「皆さんここによく聞いてください! 医師と軍人が常駐する『連合居住棟』と、隔離用の病棟を建てます。それに伴い、皆さんの家は一時的に軍の施設として接収させていただきますがぁ……」





 エミールはニコラ特製の「特別な木札」を掲げた。





「申し上げにくいのですが……軍の施設が完成すると、通行料を払わないと一歩も通れなくなるんです。ですがぁ! 協力してくれる皆さんにはなんと『特別永久通行証』を差し上げます。これを見せれば、皆さんは一生、通行料はタダです!」




 どよめく彼らに、エミールはさらに畳みかける。





「安心してください! 家を空けてもらうのはこの冬の間、病院が建つまでの間だけです! 羊の世話で残る方以外は、ここから一番近い麓の村に、軍が接収した大きな宿舎を住まいとして用意しました! 隙間風だらけの家よりずっと暖かいですし、何より食費も光熱費もタダですよぉ」




 さらに、エミールは家々の軒先に積まれた物資を指差した。





「それから、家を空ける皆さんはその『泥炭の備蓄と薪』、それに『越冬用の食料』も! 持っていくのは重くて大変です! ですから、皆さんの手持ちの備蓄は、我が軍がすべて、その場で適正価格で買い取ります! さあ、どんどん申し出てください!」





 山の上で現金など一生に数えるほどしか見たことがない彼らにとって、備蓄品の売却益は思わぬ大金を得る機会となり、羊飼いたちの目が、現金なほどに輝いた。





「春になったら肉やチーズを扱う元の仕事にもどれます! さらにその肉たちは軍に持ち込んで頂ければ『塩』と『香草』への交換も可能です! ですからそれまでは、暖かい宿舎で安心して過ごしてください……! ここにいない人たちにも、口伝でそう伝えてくださいねぇ!」





 天使のような微笑み。





「農民の皆さんもです! 皆さんが育てているトウモロコシや豆、小麦といった食糧は、すべて我が軍が買い取ります! 略奪ではありません、買い取りです!」





 更に更に此処一番の笑顔で畳み掛ける。





「……その代わり。変な噂、見たことのない顔、山を迂回しようとする怪しい奴を見かけたら、すぐに宿舎で教えてくださいね? 皆さんの『目』が……チョ……チョコレートに変わります! 甘くてすんごいおいしくて、パリで流行ってる金よりも貴重な甘い薬ですよ!」





 家を明け渡す代わりに、手持ちの資源をすべて換金させ、生活のすべてを軍に依存させる。





 エミールの不誠実な、しかし完璧な交渉により、ピレネーの奥地に「監視網」の礎が築かれた。





「ふむ……特使殿。事務屋の仕事にしては、なかなか骨があるな」





 親熊が感心したように、熱を帯びた太い腕でエミールの肩を叩く。





「この骨はすぐ折れてしまうので優しくしてください……。それに、本当は家を奪うなんて心苦しいんで、僕のチョコレート、つけておきました……」





 情けない声を出すエミールを、ニコラが細めた目の奥で見つめた。





「……不誠実の極みですね、エミール君。住む場所と食料と燃料、そのすべてを奪いながら『暖かい宿舎と救済』という恩を売った。あなたは、軍事よりもよほど『統治』に向いている」





 ピレネーの冷たい風の中で、エミールは遠いパリの空を想い、溜息をついた。




 その横で、ニコラと親熊だけは見逃さなかった。





 羊飼いの一人がほんの一瞬だけ、怯えた目をしたことを。








「……ところでエミール君。先ほど皆に約束していたあのチョコレート、パリの高級店『ドゥボーヴ・エ・ガレ』のものでしたね? あれだけの人数に配るとなると……あなたの給与三ヶ月分は軽く飛んだのではないですか?」




 ニコラの冷徹な計算に、エミールはピ鳴りした。





「……。……ぁ。……あぁぁぁあああ!! 僕の、僕の未来の給料が! 経費! ニコラ様、これ必要経費で落としましょう!」





「却下します。不誠実の代償は、自分の懐で払うのが筋というものです」





「ひどいぃ!! 将軍! 将軍からも何か言ってください! 僕、お給料少ないんですぅ! パリに戻っても暮らせません!!」





 泣きつくエミールの細い肩を、親熊バディストが毛むくじゃらの手でガシガシと叩く。





「ははは! 特使殿、男が細かい金を気にするな!」





「あうぅ………」





 ピレネーの冷たい風の中で、エミールの悲痛な絶叫が木霊した。




 羊飼いたちは「金より高い薬」の甘い誘惑に、最強の監視員としての第一歩を踏み出し始めていた。

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