第10話:誠実という名の盾 後編
(……熱、やっと下がったんだ)
提督私室の寝台で、渚はぼんやりと天井の木目を見つめていた。
高熱が引き、霧が晴れるように思考が冴えわたるにつれ、彼女は自分が置かれた絶望的な状況を、必死に、けれど冷静に整理し始めた。
(どうしよう。……本当に、どうしたらいいの)
窓の外から聞こえる波の音と、甲板を走る水夫たちの怒鳴り声。ここは19世紀、フランスの戦列艦。現代の知識を持つ自分にとって、この時代はあまりに無防備で、そして残酷な場所だ。
(今の私じゃ、地上に降りた瞬間に終わるわ。……絶対に)
今のフランスは、疫病の影がちらつき、革命の名残と反乱の火種がくすぶる混沌の渦中だ。東洋人というだけでも、その異質さは飢えた民衆や疑心暗鬼の政府にとって格好の「標的」になる。スパイや魔女として捕らえられ、凄惨な尋問の末に果てるか。どちらにせよ、そこに自由も人権もないことは火を見るより明らかだった。
(地上はダメ。行くあても、逃げ場なんてどこにもない。……なら、せめてこの船の中にいなきゃ)
渚は毛布の下で、じりじりと熱を持つ自分の掌を握りしめた。その掌に刻まれた「豆」の感触。それは彼女が現代で必死に学んできた航海士としての誇りだ。
(海上なら、私の得意分野なら、なんとか戦える。この艦隊を導く「機能」として認められれば、それが私の居場所になるはず。……幸い、シャルル提督は今のところ、私を認めてくれているみたいだし)
艦隊へ迎え入れてくれたシャルル。彼だけは自分の味方でいてくれるはず。そう信じることが、今の渚の唯一の希望だった。
その時、重厚な扉が音を立てて開いた。
入ってきたのは、診察道具を手にした軍医ジャン。そして扉のすぐ外、影のようにアドリアンの姿も見え隠れしていた。だが、そこにシャルル提督の姿はどこにもなかった。
「……起きたか。熱は下がったようだな」
ジャンの冷徹な瞳が、標本を見るように渚を射抜く。
「提督から命じられている。君の正体を医学的に証明するための『検分』を行う。……服をすべて剥ぎ、髪の先から足の裏、爪の先に至るまで、その正体を隠さずすべてを暴き立てろ、とな」
その言葉に、渚の心臓が大きく跳ねた。
「検分」。それは単なる診察などではない。一人の女性としての尊厳をかなぐり捨て、異質なものを徹底的に暴くための「鑑定」だ。
(提督が……? 私を認めてくれたはずの、シャルル様が……?)
あんなに温かい言葉をかけてくれた人が、本心では自分をこれほどまでに疑い、暴き立てようとしていた。扉の外で視線を逸らしているアドリアンの姿が、それが軍の正式な手続きであることを無言で物語っていた。
(……ああ、そうか。やっぱり、そうなのね)
胸の奥を冷ややかな風が吹き抜けた。提督は、優しげな顔の裏で、数千人の命を預かり、不確かな存在を一切許さない冷徹な艦隊指揮官として私を見ている。
カッと顔が熱くなった。屈辱と羞恥に、渚の頬は一気に朱に染まる。
けれど、泣きはしない。ここで弱さを見せれば、交渉の余地すらなくなる。
「……わかりました。……お願いします」
その声は、小さく、けれど毅然と響いた。自分の
すべてを、提督の疑念を晴らすための「通行許可証」として差し出す。それが、彼女が選んだ精一杯の生存戦略だった。
ジャンは一切の躊躇なく、冷徹に検分を開始した。
渚は指先の震えを止めることができぬまま、自らボタンに手をかけた。
「……始めるぞ」
ジャンの冷たい指先が渚の顎に触れ、強引に顔を左右に向けられる。口腔内から耳の裏、うなじの生え際までを執拗に調べられる。それは診察というよりも、荷物検査に近い。
「横になれ」
ジャンの指は、鎖骨から肩、そして指先へと滑り降りた。爪を一本ずつ裏返し、指の股までをなぞられる。掌の「豆」を確かめられたときは、ジャンの動きが止まった。
ゴツゴツとした硬い角質を医師の指が何度も執拗になぞる。その感触が伝わるたび、渚は背筋に走る悪寒を必死に抑え込んだ。
「……処女か」
低く、事務的な声が部屋に落ちた。
渚の思考が一瞬、凍りついた。カッと頭に血が上り、羞恥で視界が真っ赤に染まる。現代の日本で生きてきた彼女にとって、そんなことを、それもこんな異国の、会ったばかりの異性に問われ、確認されるなど、想像を絶する侮辱だった。
「先生……それは、今の私に、どうしても必要なことなんですか……?」
「ああ。君が『娼婦』や『どこかの勢力の息がかかった女』ではないという証明だ。この軍艦において、身の潔白は言葉ではなく、事実でしか証明できない。……脚を開け」
逃げ場はなかった。
渚は唇が切れるほど強く噛み締め、震える手でシーツを握りしめた。
ジャンの作業には、一切の慈悲も、女性への配慮もなかった。
無機質な軍医の手が、彼女の最も秘められた場所に触れる。
(……っ!)
異物の侵入。
粘膜を擦るような不快な感触と、自身の内側を容赦なく暴き立てられる感覚。
それは診察などではない。肉体の隅々までを「検品」される、剥き出しの蹂躙だった。
部屋に響くのは、ジャンが動くたびに擦れる衣服の音と、彼の淡々とした呼吸の音だけ。
(……やめて。もう、お願いだから……)
心の中で叫んでも、声にはならない。
渚は自身の心が壊れてしまわないよう、天井の木目の一点だけを凝視し、自分を「感情のない石像」だと思い込もうと必死に努めた。
「……よろしい。純潔は保たれている。嘘はついていないようだな」
その「判決」が下されたとき、渚は全身から力が抜け、寝台に沈み込んだ。
嘘をついていない――。
その証明のために、ここまで差し出さなければならないのか。
その判決が下されたとき、渚は全身から力が抜け、寝台に沈み込んだ。
シャルル提督への淡い期待は、完全に砕け散っていた。
あの人は恩人などではない。自分の尊厳をここまで徹底的に暴いてでも艦隊を優先する、氷のように冷たい合理主義者なのだ。
「……終わった。服を着ろ。これですべてだ」
渚は弾かれたように起き上がると、震える手で軍服を掴んだ。肌に残る他人の指の感触。朱に染まった顔を隠すように、必死にボタンを留めていく。
(……忘れない。この屈辱も、この寒さも)
けれど、最後の一つのボタンを留めたとき、渚の瞳から弱さは消えていた。これほどの対価を支払ったのだ。ならば、それに見合うだけの「居場所」を、この船の中に意地でも作り上げてやる。
渚は熱を帯びた頬を両手で一度強く叩くと、重い扉を開けて廊下へと踏み出した。
そこには、ジャンの報告を呆然と聞き、言葉を失っているアドリアンがいた。
「アドリアン様……」
渚は凛とした瞳で彼を見据えた。
「私は、自分のすべてを話すことはできません。話しても、今はきっと嘘になってしまうから。……けれど、嘘はつきません」
羞恥を完全に拭い去れたわけではない。だが、彼女は折れそうな心を「誠実」という名の盾で支え、真っ直ぐに宣言した。
「私は航海士です。この船に、そして拾っていただいたあなたに尽くすと……それだけは、信じてください」
アドリアンは何も答えられず、ただ彼女の気迫に押されるように、一歩後退った。




