第103話:巨人の帳簿、小人の群れ
1804年2月12日、バイヨンヌ。
バイヨンヌの夜明けは、石畳を穿つ軍靴の重奏と激しい金槌の音で幕を開けた。
(ね、眠い……。けれど、一瞬でも瞼を閉じれば、あの声が……)
エミールの意識は、疲労の限界を超えていた。
馬車の中でニコラに叩き込まれた『ガリバー旅行記』の暗唱が、目を閉じるたびに脳内で爆音の如く反芻されるからだ。
「エミール君、止まってはいけませんよ。情報の同期は、止まった瞬間に死を意味する。思考を止めるのは、自分を縛り上げようとする小人たちの糸に屈するのと同じことですよ」
背後から聞こえるニコラの幻聴に急かされるように、エミールは震える手で次々と命令書に封蝋を押し当てていく。
宿屋を「官舎」として強制徴用し、三交代制の早馬を配置する。
バイヨンヌを巨大な情報のハブへと作り替える作業が、軍の威圧とともに、有無を言わさぬ速度で進んでいく。
(えーっと、これはニコラ様に頼んだから……)
煩雑な実務の多くは、ニコラが「仰せのままに」と不気味な微笑を湛えて即座に処理してくれる。
その手際は頼もしいが、それ以上に底知れぬ恐怖を感じさせた。
そして、強引な「都市改造」が本格始動しようとしたその時。
派手な意匠の外套を纏った男たちが、広場を占拠する軍の列を割り込むようにして現れた。
バイヨンヌの建築を一手に担う石工ギルド、その幹部たちだ。
「待て待て! 誰の許しを得て、俺たちの職人を勝手に『師団』などと呼んでいる!」
先頭の男が、エミールの胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄る。
「この街の石工事は、古くから我らギルドの特権だ。パリの若造が書いた汚い管理簿とやらで、俺たちの掟を上書きされてたまるか!」
強制的な徴用に不満を抱いていた職人たちも期待を込めて幹部たちの後ろに集まり始めた。
「そうだ!」「ギルドの承認がない工事など認めんぞ!」と、怒号が津波のように押し寄せる。
(ああ……小人が大群で囀っている。とんでもなく耳障りだ……)
極度の睡眠不足にあるエミールの脳には、それらはもはや意味を持たない雑音にしか聞こえなかった。
かつてのエミールなら、場を収めるために、まず平身低頭に謝罪していただろう。
しかし、今の彼はゆっくりと、泥の付いた靴を鳴らして一歩前に出た。
(今の特使の肩書きがある僕は「巨人のふりをしている小人」だ……。だからこそ最大の演技をしなくてはいけないんだ……)
その瞳に宿っているのは、かつての臆病な光ではない。
ニコラから教え込まれた、「人間を、群れをなす小人として管理対象化する」冷徹な計算だ。
(……この人たちは、ガリバーを何千本もの糸で縛り上げようとした小人と同類だ。理屈が通じるはずもない。巨人である僕が、どうして彼らを怖がる必要があるんだ?)
「……特権、掟。いい言葉ですね」
エミールの口元に、ニコラ直伝の「不誠実な微笑」が浮かんだ。
「皆さんは『ガリバー旅行記』を読んだことはありますか? 小人の国では、王に逆らった者は、たとえ大臣であっても何千本の糸で縛られ、生きたまま標本にされるのですよ」
「はぁ? 何をわけの分からんことを……」
「皆さんの言う『ギルドの特権』は、平和な時代の古い紙切れに過ぎません。ですが、今、私の背後に並んでいるのは『皇帝の銃剣』です。小人の糸など、一振りで断ち切れる」
エミールは、ニコラから授かった「反対勢力を合法的に処理する手順」を脳内でスクロールする。
――手順1:相手の拠り所(法)を、より上位の法(全権)で無力化せよ。
「親方。皆さんが工事をしないと仰るなら、それは『英国病の蔓延を助ける利敵行為』。すなわち国家反逆罪として受理します。ギルドの資産はすべて没収。幹部の方々は今すぐこの場で、バディスト将軍が建設する『検疫隔離施設』――つまり、死ぬまで出られない檻へご招待しますが……いかがされますか?」
軍人たちが一斉に銃を構え直す。
ガチャン、という冷たい金属音が広場に響き、幹部たちの顔は一瞬で土気色に変わった。
「……っ、お、脅すのか!?」
「いいえ。私はただ、管理簿を埋めているだけです。……ああ、そうそう。ついでに、これから没収するギルドの資産ですが。これは石工の皆さんの給与に充てることにしましょうか」
エミールは、控える軍人に資産の即時没収を命じた。
「理不尽すぎる! なんなんだ、貴様らは!」
喚き散らす幹部たちを見捨て、エミールは広場の労働者たちに向かって、弾けるような笑顔を向けた。
(これは僕の言葉じゃない。あの人が、頭の中で囁いているだけだ……だから、あの人が言うように言う)
「皆さん、聞いてください! 本日より、この現場に『ギルドへの上納金』も『親方への中抜き』も存在しません! 今この瞬間、没収した不正蓄財のすべてを皆さんに還元します! 給与はこれまでの1.5倍! しかも、この私エミールが、その場で即時お支払いします!」
にっこり、と。
天使のような、あるいは冷酷な巨人のような、どちらとも取れる笑顔。
広場は一瞬の静寂の後、地鳴りのような歓声に包まれた。
「本当か!」「若旦那、万歳だ! ギルドのケチな親方どもよりずっと話が分かるぜ!」
昨日までエミールを嘲笑っていた小人たちが、今や彼を救世主のように仰ぎ見、我先にと「管理番号札」を受け取る列を作る。
エミールの瞳は一ミリも笑っていなかったが、その手は精密に、一滴の天引きも許さない給与明細を書き上げていった。
1804年2月13日。
バイヨンヌからピレネーの峠出口にかけて、松明の火が途切れることなく灯り始めた。
「まずはここに、検疫印の二つ目を押印する検問所を設営します! ここはピレネーからの脱走者を絶対に逃がしてはならない、第一の要となる場所です!」
高額な給与に釣られた「番号付きの小人」たちが、エミールの管理簿というリズムに合わせて、24時間不眠不休で山を削り、石を積んでいく。
バイヨンヌでの全手続きを終えたニコラが合流し、目を細めて呟いた。
「今の立ち回り、おやつ抜きですね。……給与を上げずに、ただ『誇り』だけで小人たちを動かす方法もありましたが。まあ、初期投資としては妥当でしょう」
その言葉を聞いた瞬間、エミールの肩から力が抜け、羽ペンが指先から滑り落ちた。
「……しょ、精進……しますぅ……。でも、ニコラ様、間違ってますよ……」
エミールは情けなく声を震わせた。
先ほどまでの冷徹な管理者の面影はどこにもない。
そこにあるのは、重圧と寝不足でボロボロになった、ただの少年だった。
「巨人だなんて……そんな格好いいものじゃありません……。本当は、僕が一番の『小人』なんです……っ。閣下からの命令とか、ルブラン様の期待とか、ニコラ様のスパルタ教育とか……何千本もの目に見えない糸でがんじがらめに縛られて、必死にもがいてるだけの、一番ちっぽけな存在なんですぅ……!」
涙目で訴えるエミール。
「僕を縛る糸が、これ以上増えたら……。その時は、標本になる前に、僕の胃に穴が空いて死んじゃいますよぉ……」
あまりに情けない特使の姿。
しかし、ニコラはその「小人の嘆き」を、どこか満足げに眺めていた。
「いいですね。その『自覚』がある限り、君の管理は淀まない。……さあ、次の工区へ。君を縛る糸をさらに強固な『鎖』に鍛え上げてあげましょう」
「ひぃっ!? もう、本当の鬼だ! 悪魔だ!!」
エミールは鼻をすすり、再び震える手でペンを握り直した。
情けなく、自分を世界で一番無力だと信じながら。
それでも彼の綴る「小人の悲鳴」は、確実にピレネーに築かれる巨大な檻の、着工の合図となろうとしていた。




