第102話:揺れる馬車と、不誠実な「同期」
1804年2月1日
パリを出立し、バイヨンヌ向かう。
数千の軍勢が巻き上げる土埃の中、エミールを乗せた馬車は、まるで移動する軍事司令部のような物々しさに包まれていた。
対面に座るのは、新カディス駐在公使ニコラ。
そして、その隣で軍服の襟を緩め、酒瓶を弄んでいるのは総大将バディストだ。
「……それで、エミール特使。君のその『木札案』だが、実効性はどう担保するおつもりだ?」
ニコラが冷徹な瞳で、エミールが書き殴った管理台帳の草案を指先で叩く。
エミールは、バディストの放つ野生動物のような威圧感に縮こまりながらも、必死に声を絞り出した。
「は、はい! 担保するのは『時間』です! どんなに足の速い工作員でも、僕たちが毎日放つ『早馬』より速く動くことは不可能です。検疫所で番号を刻印した瞬間に、その情報はパリへと走り出す。パリの門番が持つ『最新のリスト』に載っていない番号は、すべて偽物としてその場で拘束……いえ、『英国病患者』として隔離します!」
「くくっ、隔離か。言い得て妙だな、特使殿」
バディストが低く笑い、軍刀の鞘をカチャリと鳴らした。
「俺の部下たちは、山を迂回しようとするネズミを狩るのが仕事だと思っていたが……お前の案なら、ネズミが自ら『罠(門)』に飛び込んでくるのを待てばいいというわけか。山を越えても、パリという檻の鍵が開かないのだからな」
「そうです! だからバディスト様、お願いです。検疫所付近の抜け道は完全に封鎖してください。彼らを『道』に追い込むんです。管理された道以外は、すべて死地だと思わせるくらいに!」
「……ニコラ公使、聞いたか? 顔を引きつらせながらも、口にするのは効率的な地獄の構築だ!ははははは」
ニコラは懐中時計を確認し、窓の外に広がる冬の景色に目をやった。
「いいでしょう。エミール君、君のその『情報の同期』によるシステム、私がマドリード政府への『推奨事項』としてねじ込んでおきます。スペイン側にも同じ管理簿を持たせれば、ピレネーの南北で、『情報の回廊』を完成する。……もっとも、そのデータベースを管理するのは我々フランス公使館でしょうが……」
ニコラの口元に、ルブラン譲りの「不誠実な笑み」が浮かぶ。
「これで、四月のカディスの英雄艦隊と女神とやらの凱旋ルートは『清潔』に保たれる。英国の犬どもは、自分がどの番号の木札で処刑台へ送られるのかも知らずに、山道を登ることになるだろうな」
「ひぃっ、処刑なんて言ってません! あくまで検疫です、治療なんですぅ!!」
エミールの悲鳴が、軍靴の音にかき消されていく。
ボナパルトが皇帝へと手を伸ばすその裏で、ピレネーという名の「巨大な檻」が、一人の臆病な見習い公使の手によって、緻密に、そして残酷に編み上げられていった。
1804年2月11日。
パリを出発して十日余り。
冬の湿った海風が吹きつけるバイヨンヌの広場に、エミールを乗せた馬車が到着した。
降り立ったエミールの姿を見て、地元の名士や石工の親方たちは、隠そうともせずに鼻で笑った。
「なんだ、パリから来たのは、あの頼りない書記官の小僧か」
「『見習い公使』だと? 閣下も人選を誤られたものだ。こんな若造に、俺たちが従うとでも思っているのか」
石工の親方が吐き捨てた唾が、エミールの靴先を汚す。
エミールは一瞬、汚れた靴に目をやり、深く俯いた。
(ああ……駄目だ。怖い。今すぐ逃げ出したい……!)
だが、震える足を押さえつけていたのは、勇気ではなく「ニコラへのトラウマ」だった。
パリからバイヨンヌまでの十日間。
揺れる馬車の中で、あの穏やかなニコラ先輩から叩き込まれた「特別指導」は、比喩ではなく命の危険を感じるものだった。
『エミール君、顔色が悪いね。酔ったのかな? ……大丈夫、吐いてもいいですよ。ただし、その反吐を片付ける時間分、君の睡眠時間を削ってルブラン公使が愛読する『ガリバー旅行記』の全篇を暗唱してもらうけれど。……さあ、続きを話そうか。反対勢力を合法的に社会から抹殺する、三つの手順についてだ』
常に微笑みを絶やさず、紅茶を勧めるような口調で語られる「国家を動かすためのえげつない手口」。
さらには『小人の国での効率的な縛り上げ方』、『巨人の国で自分が踏み潰されないための媚びの売り方』、『ラピュタの計算機による文章生成理論』をそれぞれ五十回ずつ復唱をさせられた。
馬車の揺れによる酔いなのか、ニコラの本質的な恐ろしさへの拒絶反応なのか、エミールは道中、何度も胃液をせり上げ、その都度、ニコラの「穏やかな脅し」によって飲み下してきた。
(あの十日間に比べれば、親方の唾なんて……ハチミツみたいなものだ……!)
死の恐怖すら超越した「教育による洗脳」。
俯いたままのエミールから、急速に生気が抜け、代わりにニコラ譲りの「冷徹な虚無」が宿っていく。
次に彼が顔を上げたとき、その瞳は蛇のように冷たく澄んでいた。
「……親方。靴の汚れは、後であなたの仲間にでも拭かせます」
エミールは馬車の扉を静かに開け放つ。
そこから現れたのは、山のように積み上げられた「三次の巡回管理簿」。
そして、馬車の背後で一糸乱れぬ動きで銃を構えた、「軍の一個大隊」の銃剣の列だった。
広場の嘲笑が、物理的な冷気を帯びて凍りついた。
「……見習いですから、皆さんのような経験も、石を積む熟練の技もありません」
エミールは馬車で吐き気を抑え書き上げた「効率的な経営管理簿」を、まるで聖書のように胸に抱き、静かに告げた。
その声は低く、感情が削ぎ落とされていた。
「ですが、私にはルブラン公使から託された『四月までの時間』と、閣下から与えられた『全権』があります。……親方。今日からこの町の日雇い労働者は、私の指示に従う『石工師団』として編成します」
「いしく……しだん?」
聞き慣れぬ、だが軍事的な不吉さを孕んだ言葉に親方が眉を潜める。
エミールは構わず言葉を重ねた。
「二十四時間、八時間ごとに『駅馬の乗り継ぎ(ルレイ)』のごとく交代。一分一秒たりとも工事は止めません。休息、食事、交代の刻限はすべてこの管理簿で一括統制します。……見習いの私のやり方に不満がある方は、どうぞ仰ってください。ただし、その不満は、閣下の直筆署名が入ったこの全権委任状に対して、命を懸けて申し立てていただきます」
エミールが懐から「印籠(委任状)」を高く掲げた瞬間、背後の軍人たちが一斉に地面を蹴り、地響きのような直立不動の音を立てた。
バイヨンヌの男たちは理解した。
目の前の少年は「相談」に来たのではない。
閣下の意志を執行するため、自分たちを「石材と同じ兵站資材」として消費しに来たのだ。
「さあ、『組編成』を始めましょう。募集に応じた方は軍の警護付きで山へ運びます。……完成まで逃亡は認めません。石を切り出し、檻を建てる。それが、この町の『英国病』に対する唯一の特効薬です」
背後にいたニコラが、エミールの肩にそっと手を置いた。
「ひっ!!」
「……良くできました。ですが、甘さが残っている。60点といったところでしょうか」
その言葉に震え上がりながらも、エミールは管理簿の一ページ目に鋭く記した。
『1804年2月11日:バイヨンヌ第一工区、強制徴用開始』




