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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第五章:パリ召還

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第101話:歪んだ海図と異邦人の選択

 コンコン。





 隠れ家に響く短く、どこか投げやりなノック音。





「……? どなたですか?」 






「俺だ」






 扉を開けると、先ほど診察を終えて「シャルルのところへ行ってくる」と息巻いて出ていったジャンが、もう戻ってきていた。






 ジャンは部屋に入るなり、診察カバンを椅子に放り出した。






「……ナギ。シャルルが何を企んでいようと、お前はパリへなんて行かなくていい」






 その声は低く、ひどく震えていた。





 この二週間のレッスン。





 (シャルルさんは明言しなかったけど、やっぱりそうなんだ)





「いいか、よく聞け。お前は軍人じゃない。ましてやこの時代……、いや。お前を拘束する権利も、連れ回す権利もない。……嫌だと言え。アドリアンに泣きつけばいい。今のあいつなら、お前のためにシャルルを殴ってでも止めるだろうさ」





 本気なのか、それとも、やりきれない現実を茶化しているのか。





 ジャンの言葉は、軍医としての義務を越えた、剥き出しの「優しさ」だった。





(……大好きだよ、ジャン。ここの人たちはみんな優しい……だから)





 渚は心の奥で、そっと呟いた。その不器用な庇護が、今の彼女には何より痛かった。





 ハッキリ言って、行きたくない。





 フランス革命なんかの物騒な事や、ハイヒールの起源、色んな病気の発生源扱いになっていた歴史を知っている渚からしたら、この年代のパリは魔都だ。





海風が吹き、常に空気の綺麗なカディスから離れる気なんて、サラサラおきない。






 シャルルがなぜ自分をパリという魔都へ連れて行こうとするのか、その真意もまだ測りかねている。




 

 けれど、渚には分かっていた。






 自分がこの世界に来て、約5ヶ月。10月中旬に海で拾われたあの日から、この世界の時計の針は狂い始めているのだ。





「……ジャン。ありがとう。でも私は行かないといけないんだと思う」





 渚は、窓の外に広がるカディスの海を見つめた。





 本来なら、あと一年半もすれば、この海を舞台に「トラファルガーの海戦」が起こるはずだった。






歴史の主役になるはずだったイギリスの英雄、ネルソン提督。





 けれど、渚が放ったあの「奇襲」のせいで、彼らロイヤルネイビーたちは、損傷した船を抱えて地中海の奥深くへ逃げ込んでいる。





 そして陸を荒らし始めている。





 海の歴史が変わってしまった。



 そして




(成瀬くん……)



 

 渚は無意識に唇を指で撫で、自分の腕を強く掴む。




 脳裏に焼き付いて離れない、あの鮮やかなスカーレット。




 あの口の中に僅かに感じた、コーラの味。




 イギリス海軍の色を纏い、恐らくジブラルタルにいた彼。




 自分と成瀬くんという二つの「異物」が現れたことで、この世界の海図はぐにゃりと歪んでしまった。





 海が狂ったから、巻き込まれたシャルルたちは、今度は「陸」を変えなくてはならなくなった。





 パリへ向かうということは、ナポレオンという怪物に対峙し、栄光と破滅の道を進む覚悟を迫られているということだ。




(私が現れたせいで、みんなの運命が狂っちゃってる。あとフルトンさん……私が不用意に伝えたことがどうなってるのかも気になる)





 自分のせいだ。




 ここにいるはずのない私が、ここにいる人、ここに来てしまった人たちの大切な未来を、取り返しのつかない形へ書き換えてしまった。





(だから……逃げられない。逃げても、私の行く場所なんて、この時代のどこにもないんだもん)





 渚は、震える自分の手をそっと握りしめた。




「ナギ……?」





「ジャン、ありがとう! けど私はシャルルさんたちが行くことを望むなら行くよ! ルブランさんも気になるし」





「ナギ……お前はあの街では、無理だ」





「大丈夫! そこはシャルルさんたちがなんとかしてくれる。……でしょ?」





「違う! ……恐らくお前が持っている、衛生観念とはあの街は全く違う。人に命を奪われる所の話じゃないんだ」





(あー、ね)と納得し、流石、軍医。と少し微笑む。




「うん。……ねえ、ジャン。私の『身体検分』のこと、ちゃんと覚えてる?」




「あ、ああ」





 渚は意を決したように、大きく左腕の袖をまくり上げた。





「な、何をしてる! お前は露出が趣味なのか……。この間アドリアンが、お前の身なりのことでどれだけ――」





「わ、わー!! なんで知ってるの! 違う、違うそうじゃなくて、これを見て!」





 真っ赤になって叫ぶ渚が指差したのは、上腕に残るBCGの跡だった。





「あ、ああ、これか」





「そう! ジャンが多分、一番気になっていたやつ!」





 ジャンはまじまじと、渚の滑らかな肌に刻まれた「それ」を見つめた。





「お前の体には多少の擦り傷こそあるが、この九つの針で突いたような不自然な痕跡だけは、ずっと気になっていた。……これは、一体何なんだ」





(うーん。なんて言ったら……)





 日本では結核を予防するために打つもの。




 そしてツベルクリン反応で、過去の感染を判別するのだと説明しても、今の彼には通じない。





「あ! これは……『聖痕スティグマ』! この時代の人たち風に言えば、そんな感じ!」





(ナギ……お前のそういう適当なところが、いつか身を滅ぼすぞ)





 ジャンの口から、重いため息が漏れる。





「それは……何かの災厄から身を守るための、紋章のようなものか?」





「そう! えーと……これは『白ペスト』――結核から、身を守ってくれます!」





 ジャンは目を見開いた。





 この時代、結核は一度罹れば死を待つしかない、全欧州を震え上がらせる不治の病だ。




 何かを成し遂げたように、少しだけ胸を張る渚。




(きっと、ここでジャンに知識を伝えるのは、千円札の人や大学の名前になってる偉大な人たちの功績を、ジャンが横取りしちゃうことになるのかも……。もしそうなったら、ジャンを鎖国中の日本の蘭学の発展に送り込むから、野口先生も北里先生も許してください……)




 渚は心の中で、まだ見ぬ未来の偉人たちに深く頭を下げた。




「いい、ジャン。よく聞いて。私の国では、赤ちゃんが生まれた瞬間に、この『聖痕』をみんなに刻むの。国中の人全員が、よ!」





「……全員だと? 国家規模でそんな魔術的な儀式を……?」




「これは魔術に見えるけど、れっきとした医術なの!」




「お年寄りの聖痕(種痘)はさらに大きくて、天然痘もビックリしていなくなってるよ!」





 驚愕に目を見開くジャンを置き去りにして、渚の言葉は加速する。





「だから私たちの国には、白ペストも、天然痘も、ほとんど存在すらしていないの。これを『集団免疫』って言うんだけど……とにかく! 私はそこらへんの、ひ弱な淑女より何倍も、何十倍も強いんだから!」




 渚はさらに身を乗り出た渚の鼻先が、ジャンの鼻先につきそうになる。





「なんなら私、航海士になるために、普通の人なら打たないような特別な『聖痕』も、自腹で追加しまくってるんだからね! 東南アジアの熱病も、アフリカ大陸の未知の病気も、どこへ行ったって平気なのよ! パリの汚泥が何よ、どんと来いって感じ!」





 現代のワクチン(黄熱病、A型肝炎、破傷風などなど)フル装備なのだ。1804年の医学常識では、もはや人知を超えた「無敵艦隊」に近い。





「いい、ジャン? 私という存在そのものが、災厄を跳ね返す『聖痕』なのよ!!」




 現代知識をひけらかし悦に入りドヤ顔でまくしたて、はぁはぁと肩で息をする渚。




 あまりの熱量に数歩後ずさったジャンは、ひきつった顔で眼鏡を押し上げた。





「……ナギ。お前、パリへ行ったら、その口を絶対に開くなよ」





「えっ、なんで?」





「いいか。そんな理屈、パリの教会や保守派が聞けば、間違いなく『魔女』認定だ。その瞬間に広場へ引きずり出されて、火炙りの刑になるぞ。……俺は、あいにく灰になった奴を生き返らせる術式は知らないんだ」




 ジャンの呆れ果てた、けれど本気で心配そうな溜め

 渚は「あ、そういえばそういう時代だった……」と、急に現実へ引き戻された。





「……だから、分かった。俺も行く」




 ジャンは投げ出していた診察カバンをひっ掴むと、吐き捨てるように言った。





「シャルルには、俺を納得させるだけの理由を言うんだな……と言ったが。まさか、その理由が『付き添いがいないと三日で火炙りになる魔女の監視』になるとは思わなかった。……不本意だが、お前を死なせるよりはマシだ」




 ジャンはそれだけ言うと、今度こそ、乱暴に扉を閉めて出ていった。




 

 残された渚は、まくりあげたままの自分の腕を見つめ、小さく呟いた。





「……よかった?のかな?」





 4月。




 運命という名の、そして混沌という名の香りを纏った「パリ」への行軍が、すぐそこまで迫っていた。

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