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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第五章:パリ召還

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第100話:マカロンの督促と軍医の拒絶

1804年 3月中旬 渚が隠れ家に行き二週間





場所はカディス海軍工廠、司令官執務室。






 深夜の静寂の中、シャルルは一人、再び届いた督促状を凝視していた。






 『パリ高級菓子店・未払い督促状』






 指先で裏面に並んだ不自然な数字の羅列をなぞり、脳内で一つずつ文字へ変換していく。






(……ピレネーに檻、完成近い。……女神を運ぶ「黄金のバイパス」……。……迎えにエミールとニコラが向かっている……)






 最後の一行を読み解いた瞬間、シャルルは椅子に深く背をもたれ、天井を仰いだ。






「……マカロンの利息は、高くついたわね。ルブラン」






 それは、悪友からの「パリ」への招待状だった。





 ルブランがボナパルトを動かした。






 それはつまり、渚という「未知の知恵」をもった異物を、帝国の心臓部へ正式に放り込む許可を得たということだ。






「ナギはパリの『希望』に。……私には『破滅』という名の最高の舞台、ね……」






 ルブランという共犯者が、パリで泥を被り、顔を紫に腫らしてまで舞台を整えた。






 ならば、その舞台に上がる主役は、誰よりも華やかに絶望を踊りきらねばならない。






「……皇帝となるボナパルトの野心と、ナギの純粋な祈り。どちらが勝つのか……」






 シャルルは静かに立ち上がると、扉の外の衛兵に短く命じた。





「ジャンを呼べ」








 翌朝。




 渚の毎日の診察を終えたジャンが、不機嫌そうな顔で提督室に現れた。





「何のご用件でしょう……。わざわざ呼び出して」






「どう? ジャン。ナギは馬車で動かせそうかしら?」





 シャルルの問いに、ジャンは眼鏡のブリッジを押し上げ、大きくため息をつく。





「あばらの痛みはかなりマシになっている。毎日のレッスンに加え、菓子を食い過ぎて体も戻っている。肉体的には、以前の健康状態にほぼ戻ったと言っていい」





「ならば、決まりね。4月、私たちはパリへ向かうわ。もちろんジャン、あなたもね」





「断る。……行かせるわけにはいかない」





 ジャンの短く、硬い拒絶。





 シャルルは細めた瞳でジャンを射抜く。





「ふふ、意外ね。貴方、あの子の未知の知識で、何かが実現することを楽しんでいたじゃない? これはそれを叶えた、貴方の責任でもあるのよ?」





「それとは別だ! ……シャルル、忘れたのか。あの子の身体検分をした時の報告を」





 ジャンの脳裏には、初めて渚を調べた時の光景が、呪いのように焼き付いていた。





「彼女の肉体は、この世界の汚泥を知らない。パリの不衛生さは肥溜めと同じだ。ペスト、天然痘……あの街の門を潜れば、その瞬間に熱を出して死ぬぞ。温室の小鳥を毒の沼に放り込むような真似、俺は軍医として絶対に認められない」





「軍医として……ねぇ。ただ海岸のことを悔やんでいるだけではなくて?」





 シャルルの言葉に、ジャンの肩が微かに震えた。





 霧の入り江。





 工作員に襲われ、自分は海へ逃げることしかできず、渚を得体の知れない怪物に破壊されかけた。





 アドリアンの元へ、砂と海水にまみれた彼女を抱きかかえて戻り、絞り出すように言った「すまん」という言葉。






 あの時、自分のせいで彼女の「無垢」が壊されたという罪悪感と、彼女を失っていたかもしれないという恐怖が今も胸を焼いている。





「……囚われてなどいない」





「嘘ね。アドリアンの前では決して口に出さないけれど……ジャン、貴方もあの子を失うのが怖いのね」





「……生憎だが、俺は『提督様達』とは違うのでな」






 ジャンは鋭く、シャルルを睨み据える。






 アドリアンや自分たちが真っ直ぐな献身の傍らで、シャルルは常に提督として、軍人として渚を見て扱おうとしている。





 まるで降って降りてきた都合の良すぎる『駒』の様に。






 何を考えているか分からないその瞳が、ジャンには何より腹立たしかった。





「……あんた達の『作戦』に、あいつの命を担保にするな。俺を納得させるだけの安全な保証が用意できないなら、俺は行かない。ナギも、絶対に行かせない」





「ふ。ジャン、迎えが来れば何があろうと連れて行くわ――」





「なら……俺を納得させるだけの理由を言うんだな」





 ジャンはそれだけ言い捨てると、敬礼もせずに部屋を飛び出した。





 再び一人になった執務室で、シャルルは机の上の督促状と一緒に届いた香水の瓶を見つめ手に取る。





「……本当に、可愛くない坊やね」





 提督は、小さく溜息をついた。





 躊躇いなく栓を抜き、空間に向けてそっと振りかける。





「厭な匂いだ」





 鼻を突く、むせ返るような薔薇と、それを下支えする濃厚な麝香ムスクの香り。




 排泄物と死臭が混ざり合うパリの路地裏を、無理やり豪奢なカーテンで覆い隠すような、虚飾の香り。





 ルブランはこの香水に「警告」と「招待」を込めたのだ。




 ジャンが危惧するように、そこは「温室の小鳥」が生きられる場所ではない。





 (でも、あの足の長い異国の小鳥はどうするかしらね)





 足の長い異国の小鳥が、ハイヒールで路地を踏み鳴らし、虚飾を踏み越えていく姿を想像し、シャルルはふっと鼻を鳴らす。





(あの子が希望で終わるか、犠牲で終わるか。私たちの手にかかっている。それを背負う覚悟くらいは、もう出来ているわ。)




 4月。





 迎えのエミールが来るまでに、この頑固な軍医をどう説得するか。





 女神を死神に奪わせないために。


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