第98話:紫の勲章と、不誠実な「検疫」
時は戻り、1月末のパリ――。
翌朝。
静寂に包まれた隠れ公使館に、ルブランが戻ってきた。
待ち構えていたエミールとロシュフォールの前に、彼は片手で顔を押さえながら現れた。
「……ひぃっ! ルブラン様、その顔……! 幽霊どころか、死斑が出てますよ!! 左のほっぺが真っ紫です!!」
エミールの悲鳴に、書類を整理していたロシュフォールが、冷徹な視線を上げた。
「……死斑ならそのまま墓場へ送ってやるが、どうやら違うようだな。ルブラン、その酷い腫れは何だ。宮殿の近衛兵にでも殴られたか?」
ルブランは「あいたた……」と、どす黒く内出血した頬をさすりながら、力なく笑った。
「俺が死んだらスミレでも供えてくれ、ロッシュ。これは……閣下の『激励』だよ。ネズミ取りに頬がはさまれたかと思ったら、閣下の指だった。ははははっ」
「激励だと?」
ロシュフォールは眼鏡のブリッジを押し上げ、ルブランの頬をまじまじと見つめた。
その眼差しは冷ややかだが、わずかに口角が上がったのをエミールは見逃さなかった。
「……なるほど。閣下はそれほどまでに『お喜び』だったというわけか。その紫の痣は、我々の不誠実な計画が、帝国の正式な意志として受理された証というわけだな」
「その通り。流石、話が早い。おかげでこの通り、直筆の追加署名も勝ち取ってきたさ」
ルブランは机の上に、ナポレオンの力強い筆致が踊る全権委任状を放り出した。
ロシュフォールはそれを手に取り、内容を確認すると満足げに鼻を鳴らした。
「……英国病、か。病名を政治の盾に使うとは。ルブラン、お前の性格の悪さはピレネーの断崖より深いな。だが、これならスペインの無能な大臣どもも『自国の病』ではないと言われて、喜んで封鎖に合意するだろう」
「だろう? 閣下もこの案をいたく気に入ってくれてね……最後には『しつけ』をお返しされたがな」
【回想:深夜のチュイルリー宮殿】
コーラで覚醒したボナパルトが、鋭い視線でルブランを射抜いた。
「ルブラン。貴様、死神の門を潜ってまで余に何を言いに来た。ただ飲み物を持ってきたわけではあるまい」
「……閣下。いいえ、まもなく『皇帝』となられるお方。首を刈られるのをただ待つのは、貴方のスタイルではないはずだ」
ルブランは一歩踏み出し、ピレネーの断崖での出来事を語った。
ジブラルタルのイギリス海軍が放った工作員が、パリを目指していること。
その足音が近づいていること。
「……何だと? 公使のお前が、余に軍を指揮しろと指図するのか?」
「滅相もない。私は公使の立場であります。越権行為など致しません。ですが……パリでは『ナポリ病』、マドリードでは『フランス病』などと勝手な名で呼ばれているあの忌々しい病。私がピレネーで見た真実は違います。あれは間違いなく、『英国病』です」
ルブランは吐き捨てるように言い、ボナパルトの目を真っ向から見据えた。
「奴らこそが病の温床。我々フランス人が原因であるかのように言われているのは、奴らが流した卑劣なデマに過ぎません。軍の力を削ぎ、帝国の屋台骨を腐らせる病を、これ以上パリへ入れるわけにはいかない。……ペストと同じですよ。今、ピレネーに蔓延る『英国病(工作員)』を山の中に隔離し、閉じ込める。それが私の使命と考えております」
「……」
「さすれば、ピレネーの道が開け、この『点火剤』やカディスの恵みを運ぶ『黄金のバイパス』ができる。……この瓶の中身も、持ってあと一週間ほどでしょうか……?」
ボナパルトは漆黒の瓶を持ち、獣のような鋭い目でルブランを凝視し、爆ぜるように笑った。
「……くくっ、ははははは!! 英国病とは! 貴様、病の名まで政治に利用し、山を巨大な監獄に変えるつもりか。お前は余の好む『悪』そのものだ!」
ボナパルトは立ち上がると、無防備なルブランの左頬を、太い指でねじ切らんばかりにつねり上げた。
「あいたたっ……! か、閣下、お戯れを……っ!」
「黙れ! 幽霊の分際で、余の脳をこれほど揺さぶったのだ。これぐらいの『躾』は受けておけ。……気に入ったぞ、ルブラン! その隠れ蓑のような検疫、余が認める。奴ら工作員の顔に、絶望の花を咲かせてやるのだ! そして、このジュースを女神に届けさせてみよ!」
激痛の奥で、ルブランは確信し、歪んだ笑顔で応えた。
「……光栄、です。……陛下」
【現在:隠れ公使館】
「というわけで、エミール。これを持ってマドリードへ行け。スペイン政府を叩き起こして、ピレネーの『南側』を完全に封鎖させるんだ。さもなくば、『マドリード病』が誕生するとでも脅しておけ」
「ええっ!? い、嫌ですよ!!」
エミールは頭を抱え、半泣きで叫んだ。
「ルブラン様……そろそろ本気で死罪ですよ!!」
ルブランは一瞬だけ考える素振りを見せ、それから肩をすくめた。
「ああ。だから今は――少し遊んでいる!」
そう言って、紫に腫れた頬を指で軽く叩く。
「次つねられたら、今度こそ処刑台行きかもな。……だがな」
彼は全権委任状を手に取り、静かに笑った。
「処刑される前に、帝国に一本、道を通しておくぐらいは許されるだろう?」
「 僕が行ったら死罪どころか粉々になります! きっと雪の女王様は、僕みたいな可愛い子がタイプなんです! 食べられちゃいますよ!!」
「はは、そう言うと思ったよ。だが安心しろ。お前が行く道には、もう女王はいない。……俺が『英国病』にしておいたからな」
ロシュフォールが、泣き言を言うエミールを冷たく見下ろした。
「エミール、行け。お前の頬が紫になるのが先か、カディスの女神がピレネーに到着するのが先か……これは競争だ。負ければ、私が直々に貴様の頬に『受理印』を押してやる」
「ひっ、ロシュフォール様までーーっ!!(号泣)」
「あっ、軍の警護は大量につくから安心しろ。そのままお前が検疫所を開設して、配置していけ」
ルブランが頬を氷で冷やしながら、人事のように付け加えた。
エミールは、ボナパルトよりも目の前の上司たちの恐ろしさに震えながら、全権委任状をカバンに詰め込み、夜明けの街へと飛び出していった。




