第97話:黄金比の二人と、淑やかなペンギン
隠れ家の広間では、連日「歩行特訓」と「エスコート特訓」が二本立てで繰り広げられていた。
「だから! 膝を割らない! 足音を立てない! 貴女、わざとやってるのかしら!?」
シャルルの鋭い声が、広間の高い天井に反響する。
椅子に深く腰掛けた「おねぇ提督」の目は、獲物を定める鷹のように鋭い。
「……だって、これまでの重いドレスなら、ガシガシ歩かないと進まないんですよ! それに私、元々ガサツなんですぅ……っ!」
半泣きで逆ギレする渚の、エスコートの相手を務めるアドリアンが「まあまあ、ナギサも努力はしている……」となだめようとした。
だが、シャルルの扇子が机を叩く。
「……ナギ、一歩が大きすぎるわ! 貴女、アドリアンと行進でもするつもり?」
アドリアンの差し出した腕に手を添え、必死に「淑女の歩幅」を意識するナギサだったが、どうしても足が出てしまう。
それは、この時代の人間には理解しがたい「現代っ子の骨格」ゆえの悩みだった。
アドリアンは艦隊でも一、二を争う長身だが、ナギサもまた、現代基準で驚くほど足が長い。
並んで立つ二人の姿は、アドリアンの肩の位置と渚の頭の位置が絶妙なバランスを保ち、見る者が思わず息を呑むような「15センチ差の黄金比」を描いていた。
その光景は、愛を囁き合う『アモルとプシュケ』が命を得て動き出したかのようであったが、現実はそれほど甘くない。
「あだっ……! ご、ごめんなさい!アドリアン!」
「……っ! い、いや、大丈夫だ。……少し、爪先が痺れただけだ……」
ぐらりとバランスを崩した渚の踵が、アドリアンの靴を無慈悲に踏み抜く。
べそをかく渚に対し、アドリアンは痛みを堪えてデレデレと微笑んだ。
「大丈夫だ、ナギサ。……確実に、君のステップは上達している。……本当だ」
「全然説得力ない……! 涙目じゃない!」
この「デレデレ騎士」の体たらくに、シャルルは深い溜息をついた。
「全く……。アドリアン、甘やかしすぎよ。これではパリに着く頃には、爪が何本残っていることやら……」
そんな時、レオノールが大きな木箱を抱えて駆け込んできた。
「シャルル様! パリから例の『ブツ』が届きましたわ!」
中から現れたのは、雪のように白く、羽のように軽い布の塊。
「これが、最先端ねぇ……。ナギ、これは私からの快気祝いよ。試着してみなさい」
それを見た瞬間、ナギサの目が輝く。
「わあ……! 可愛い! これ、ウェディングドレスみたい……!!」
エンパイア・ドレス。
ボナパルトの妹やジョセフィーヌが愛した、コルセットから女性を解放する「自由の象徴」。
「……助かったぁ……! これはコルセットしなくていいんですよね! まだあばらが痛むので、これなら着れそうです!ありがとうございます、シャルルさん!」
狂喜乱舞する渚。
だが、まだ知らなかった。
「コルセットがない」ということは、「一切の防御壁がない」ことと同義であるという、パリの流行の恐ろしさを。
「レオノール。その子の髪をギリシャ式に結いなさい。後れ毛をたっぷり出して、無垢な色香を演出するのよ」
「またナギ様の髪を結えるなんて!さぁ寝室へ行きましょう!」
キラキラと目を輝かせるレオノール。
レオノールの手で、「生きたギリシャ彫刻」へと作り変えられていく渚。
だが、着替えを終え、鏡の前に立った渚は、その場から一歩も動けなくなった。
「……ちょ、これ、……えっ?」
薄いリネンのシュミズの上に重ねられたのは、まるでリビングのレースカーテンのような、透け感のあるモスリンのドレス。
いや、もはや全てが透けているのである。
ブラジャーもパンツも、そもそも下着の概念が違うこの時代。
腰まであったはずの「防御」が一切消え、股の間を吹き抜ける風が、ダイレクトに「何も履いていない」現実を突きつけてくる。
「こ、これは無理! 私は公然わいせつで捕まる!」
「ナギ様とっても素敵ですわよ、早く殿方にお見せしましょう!」
「嫌だ!嫌!やめてぇぇぇぇ……」
レオノールに背中を押され、無理やり広間に連れ出された渚。
彼女は顔を真っ赤にし、内股をギュッと閉じた。
一歩大きく踏み出せば、薄い布が脚の間に吸い付き、すべてがアドリアンの目に晒されてしまうという恐怖。
首まで真っ赤にした渚が、シャルル達に向かって歩みでる。
「……ちょこ、ちょこ……。……そろ、そろ……」
まるで氷の上を歩くペンギンのような、慎ましすぎる歩幅。
それを見たシャルルは、満足げに微笑んだ。
「あら。できるじゃない、ナギ」
「……っ、できるようになったんじゃなくて、これ……大股で歩いたら、色々終わっちゃうから……っ!!」
涙目で小刻みに震えるナギサ。
その背後で、新しいドレスを纏ったナギサの「透けるような背中から脚のライン」を不意に見てしまったアドリアンは、音を立ててその場に崩れ落ちた。
「……ナギサ。……すまない、私は、君を……直視できない……っ!!」
「まぁ……!」
それを見たレオノールが、ぱっと両手を胸の前で握りしめる。
「ご無理なさらず…でも、ちゃんとご覧くださいね?パリでは殿方の忍耐も嗜みだと聞きました!」
(私の作り上げたフィギュア(芸術)をしかとご覧くださいな!)
「や、やめろ……! それ以上は……っ!」
励ましのつもりで放たれたその言葉が、アドリアンの精神力を確実に削っていった。
羞恥心という名の最強の矯正ギプス。
こうしてナギサは、本人の意図しない形で「パリで最もお淑やかな小鳥」への第一歩を踏み出したのである。




