第96話:厩の小鳥と、おねぇの溜息
カディスの隠れ家で、一週間にわたる「扇子(鈍器)特訓」がようやく幕を閉じた。
アドリアンの頭にいくつかのたんこぶを作った末、渚はようやく扇子を「淑女の牙」として扱う及第点を得た。
肋骨の痛みも軽くなり、ようやく自力で屋敷の中を歩けるようになったのだが……。
「……ちょっと、ナギ。そのまま止まりなさい」
シャルルの、氷のように冷徹な声が背中に突き刺さった。
「えっ……? あ、シャルルさん! 見てください、やっと支えなしでスラスラ歩けるようになったんですよ!」
「それよ。……今のその、地面を蹴り飛ばすような無様な歩き方は何かしら?」
シャルルは扇子をパサリと閉じ、獲物を定める目つきで渚を凝視した。
「会った時からずっと気になっていたけれど……。ナギ、貴女、もしかして厩で育ったのかしら?」
「う、厩……!? お馬さんの小屋ですか!? さすがに聞き捨てなりません! 私は普通の家で……っ」
「淑女はそんな男みたいに、大股でガサツに歩かないわ!!! 膝を割って、腰を振って、まるで地面に喧嘩を売っているみたいじゃない。……あの子アドリアンは盲目だから気づかないでしょうけど、私の目は誤魔化せないわよ」
渚は絶句した。
今まで生きてきて、自分の歩き方を全否定されたことなど一度もない。
むしろ、現代っ子として「足が長いね」と褒められることもあったのに。
(……二十一世紀では、これ、効率的な歩行姿勢なんですけど……! まさか十九世紀になったばかりのフランス人に、歩き方を全否定されるなんて!)
「……私、今までそんな指摘、一度も受けたことないです……っ。だから、これが私の正解なんです!」
渚はせめてもの抵抗にと、マスターしたての「扇子言葉」を使い、扇子を顎の高さでぴしゃりと閉じて『拒絶』を示した。
その生意気な態度に、シャルルの眉間がピクリと動き、青筋が浮かぶ。
「その『ドスドス』という足音は、パリの淑女の耳には宣戦布告の戦太鼓のように聞こえるでしょうね。……さあ、膝を揃えなさい! くるぶしを擦るように、もっとしなやかに!」
シャルルは窓の外、中庭で薪を運ぶ男を扇子で指した。
「見てみなさい、あのロドリゴを。彼は闘牛士のように堂々と、この太陽の大地を踏みしめて歩いているわ。それはこの土地の美学よ。……あ、あっちのレオノールもそうね」
十五歳の少女、レオノールは、洗濯物の籠を腰に抱え、鼻歌を歌いながら軽快に石畳を歩いていた。
一歩ごとにスカートが小気味よく揺れ、健康的な足首が躍動している。
「あの子は、自分がこの街で一番可愛い女の子だって知っている。だから、一歩ごとに太陽を味方につけるように胸を張って歩く。スペインの風に最高に似合う『正しい』歩き方よ。……でも、ナギ。貴女のは違う」
(レオノールはそんなに褒めて……私ばっかり、なんで私ばっかり……っ!)
連日のスパルタ指導に追い打ちをかけるような叱責。
あまりの悔しさに、渚の顔が見る見る赤くなっていく。
「あの子は『スペインの少女』を演じきっているの。貴女は、自分が何者であるかを足音に乗せられていない。いい? パリは、誰にも気づかれずにドレスの裾で色んな物を隠しながら通り過ぎるような、『静かなる略奪者』たちが集う場所なのよ」
「……何ですかその怪盗みたいな歩き方……」
「それが社交界という名の戦場よ! ほら、膝を伸ばして! 貴女の歩き方はカディスの太陽の下では健康的かもしれないけれど、パリの月光の下では……ただの『元気な荷馬車』だわ」
「……な、厩育ちに…… 荷馬車……!? もう、さっきから黙って聞いてれば!」
渚の堪忍袋の緒が、ついにブチリと切れ、現代人としてのプライドが火を噴く。
「シャルルさん、見てください! 私、たぶんパリのどの淑女よりも足が長いんですから! だって……現代っ子なんだもん!」
勢いよく叫ぶと同時に、渚はドレスのスカートの両端を掴み、一気に太もものあたりまでたくし上げた。
「ほら! この高い膝の位置を見てください! 全然『がっしり』なんてしてないし、すらっとしてるでしょ!?」
「…………っ!?」
シャルルが扇子を広げたまま、彫刻のように固まった。
そして――。
「……ナ、ナギサ……ッ!?」
二人の口論に割って入るタイミングを計っていたアドリアンが、持っていた羊皮紙をバラバラと床にぶちまけた。
彼の顔は耳の裏まで真っ赤を通り越して、もはや紫に近い。
「な、何を……何をさらけ出しているんだ君は! 隠しなさい! 今すぐ、その……その眩しすぎる毒を隠すんだ!!」
アドリアンは半狂乱で立ちはだかり、近くにあった布を広げて渚を必死に包み込もうとする。
その必死すぎるアドリアンにさえ、渚は怒りと悲しみが混ざり合って噛みついた。
「わたしの足を、毒なんて言わないで!!脱毛だっていったし……スクワットも浮腫マッサージもして、頑張った足なんですぅ……みんな、ひどいですぅ……!!」
とうとう大粒の涙が溢れ出し、グズグズの泣き顔になる渚。
アドリアンは「いや、そういう意味では……!」と、完全にオロオロするしかない。
「(……悔しいけれど、ラインは完璧だわ……)」
「あら、あらあら……。分かったわ、貴女は少しばかり足の長い、異国の小鳥だったのね……」
「フ、フラミンゴみたいに言わないでください!!」
立て板に水のごとく溢れ出すシャルルの「おねぇディスり」。
「フラメンコ? 踊りたいの、ナギ?」
シャルルは額を押さえて深い溜息をついた。
「確かにその脚線美、パリのどの貴婦人も嫉妬で卒倒するでしょうね。……でもいい? 私が言っているのは『中身(歩き方)』なの! どんなに極上の名馬だって、歩き方が不細工ならただの駄馬よ!」
「な、……結局また馬じゃないですかぁ……っ!」
必死の抗議も、シャルルにとっては飛んできた羽虫を払うようなもの。
反論しようにも、相手は言葉のプロ。
絶妙にエレガントな毒舌で先回りされ、渚の言い返しは一言残らず空中で叩き落とされた。
(悔しい……! この人、おねぇの皮を被った口喧嘩のプロだわ……っ!)
カディスの力強い歩き方と、パリの狡猾な歩き方。
その狭間で、現代の小鳥……もといフラミンゴは、長い足をバタつかせながら敗北の涙を拭った。
一部始終を見ていたレオノールが、洗濯籠を抱えたまま、楽しそうに首を傾げた。
「ナギ様、そんなに悔しいなら、後で私とフラメンコでも踊りましょうね!」
「……だから、フラミンゴだってばぁ……っ!」
呆れ果てるシャルル、狼狽えるアドリアン、楽しむレオノール、そして涙に暮れる渚。
だが、これから彼女たちが向かう場所――
「洗練」という名の暴力が支配するパリ社交界において、何も知らない無垢な獲物が、老獪な貴婦人や退屈した観客たちの手で徹底的に追い詰められていく――
その構図そのものだったのである。




