第95話:チュイルリーの影、皇后への誘惑
深夜のチュイルリー宮殿は、墓場のような静寂と、戦場のような殺気が混ざり合っていた。
相次ぐ暗殺未遂に、近衛兵たちの神経は限界まで逆立っている。
「止まれ! 何者だ!」
鋭い誰何とともに、銃剣が突きつけられる。
だが、闇から現れた男は、微塵も動じず唇を吊り上げた。
「……『アウステルリッツ』」
低く、だがよく通る声でその単語が告げられた瞬間、兵士たちの顔から血の気が引いた。
それは最高機密に属する合言葉。
男は彼らが言葉を発する前に、その横を通り過ぎる。
「……あ、あの男……死んだはずのルブラン公使じゃ……?」
兵士たちの囁きを背に、ルブランは迷うことなく宮殿の奥へと進む。
目指すは、第一執政ボナパルトの寝所――の、手前にある私室だ。
そこでは、ジョセフィーヌ・ド・ボアルネが、蝋燭の火を頼りにタロットカードを並べていた。
夫の不眠と苛立ち、そしていつ奪われるか分からない自分の居場所に、彼女は震えていた。
「……嘘よ。あの方は、あなたが死んだと聞かされていたわ」
影の中から現れたルブランに、ジョセフィーヌはカードを握りしめた。
ボナパルトは昨日、憲兵隊の「生存可能性ゼロ」の報告を読み、地図の上に拳を叩きつけたのだ。
『ルブランが消えたか……。ハッ、面白い。運命が俺の手足を一本ずつもぎ、俺を独りにしようというわけか。いいだろう、次は俺の番だ。神が俺を試しに来ているのなら、返り討ちにしてやる!』
それは弔いではない。
「俺の駒を奪えると思うな」という神への挑戦状。
その狂気を、彼女は間近で見ていた。
「ええ、閣下は賢明な方だ。私が死んだという報告を聞き、今頃は『運命』という名の敵をどう屠ってやるか、その執念だけで一睡もできていないでしょう。……ですが、私は死神にさえ見放されましてね。貴女方を追い詰める死の影から、閣下を救い出すために戻ったのですよ」
ルブランは手際よく、グラスに『漆黒のジュース』を注いだ。
自ら一口飲み干して毒がないことを示し、新しいグラスを彼女に差し出す。
「……シャンパンと同じような音がするのね」
「これは命の鼓動ですよ。さあ、一口」
「……毒殺でも企んでいるのではなくて? それとも、どこかの派閥に寝返ったのかしら」
ジョセフィーヌは躊躇したが、ルブランの瞳に宿る不思議な熱気に当てられ、おそるおそるその液体を口に含んだ。
「――ッ!!?」
喉を焼く強烈な刺激。
鼻に抜ける未知の香料。そして爆発的な覚醒感。
「な、……なによ、これ……! 身体が熱い……!」
「カディスの女神が、憔悴した英雄にのみ許した点火剤です。ジョセフィーヌ様、貴女はこの女神の知恵や容姿をお聞きですか? かつて閣下がエジプトで見た神秘を思わせる、カラスの羽のように美しい髪を持つ娘です。話せば学者の様な知識を持っている。彼女を連れ出せば、パリの社交界はひっくり返る。貴女は今まで以上に、あのくだらない社交界の注目の的になれる」
「私が、注目の的に……?」
「ええ。貴方が望めば、私はここへ女神を連れてくる。さあ、この『点火剤』を持って閣下の元へ。死神を追い返した男からの、最高の挨拶ですよ」
ジョセフィーヌは、漆黒の瓶を銀の盆に載せ、閣下の寝室へと向かった。
部屋の中では、ボナパルトが抜き身の剣を弄んでいた。
不眠のせいで、その顔は幽鬼のように青白い。
「ジョセフィーヌか。……ルブランが死に、カディスの風も止まった。運命が俺を闇へ引きずり込もうと笑っているのが聞こえる……」
「貴方は少し、お疲れなのですわ」
「疲れだと? 黙れ! 運命が牙を剥いているときに、目を閉じていろというのか!」
激昂して振り向くボナパルト。
その血走った眼に、背後の闇に控えるルブランの影が映る。
「……っ、貴様! 迎えに来たか、幽霊め!」
剣を向けるボナパルトの前に、ジョセフィーヌが割って入り、漆黒のグラスを突きつけた。
「運命などと、寝ぼけたことを仰らないで。これはカディスの女神からの、貴方のための気付け薬ですわ。これを飲んで、そのくだらない妄想を殺しなさい!」
「……毒か? 運命が、お前の手までも使って俺を殺しに来たのか!」
「ええ、毒かもしれませんわね。……貴方を現実に引き戻すための、ね」
ジョセフィーヌの気迫に押され、ナポレオンは忌々しげにグラスをひったくった。
彼はそのまま、漆黒の液体を一気に煽る。
「――ぶ、ふっ!!?」
瞬間、未体験の衝撃が襲った。
喉を激しく引っ掻くような炭酸の刺激。
舌が痺れるほどの爆発的な甘み。
鼻腔を突き抜ける香料の香りに、彼は思わずグラスを落としそうになり、口元を拭った。
「な……なんだ、これは! 喉が焼ける! 毒ではない、これは『火薬』か何かか!?」
レモンジュースを飲んだ時の衝撃を思い出し、文句を言いかけたボナパルトの言葉が止まる。
胃に落ちた液体から、熱い脈動が全身へ広がっていく。
ドクン、ドクンと心臓が力強く鳴り、不眠で泥のように濁っていた思考が、まるで冷水を浴びせられたように急速に透き通っていく。
視界が広がる。
「神が俺を殺しに来る」という被害妄想に近い強迫観念が、霧が晴れるように消えていった。
「……ほう。……ほう、これは……凪のようだ……」
血走っていた眼から狂気が消え、冷徹な理知の光が戻る。
彼は自分の掌を見つめ、それから闇の中に立つルブランへと視線を向けた。
「脳を直接叩き起こされた気分だ。運命だの神だの、 そんな実体のない敵に怯えるなど、余としたことが。
今夜だけは、久しぶりに神よりも自分を信じられる」
再びグラスを手に取り、今度はその味を楽しむように一口、口に含んだ。
「カディスの女神か。会ったこともない娘に、余の脳を躾けられるとはな。……ルブラン、この漆黒のジュース、余はたいそう気に入ったぞ!」
不敵に笑う。
かつての、勝利だけを見据える無敵の軍神の顔に戻っていた。
「光栄です、閣下。……いや、『陛下』と呼ぶ準備を始めるとしましょう。この瓶を飲み尽くすまでに。」
ルブランは深く一礼し、影に紛れるように部屋を辞した。
深夜の廊下、冷たい空気を吸い込みながら、彼は誰もいない闇に向かって、小さく、だが確信を込めて呟いた。
指先が僅かに震えている。
「……勝ったぞ、シャルル」
(さぁ、女神を連れてパリへ来い!)




