第10話:誠実という名の盾 前編
渚が深い眠りから意識を取り戻し熱のさがった、彼女を待っていたのはシャルル提督からの非情なまでの「検分」であった。
提督私室。軍医ジャンは、淡々と診察道具を並べ、感情の読めない瞳で渚の前に立っていた。
提督から下された命令は、単なる診察などという生易しいものではない。
『服をすべて剥ぎ、髪の先から足の裏、爪の先に至るまで、その正体を隠さずすべてを暴き立てろ』
という、一人の女性としての尊厳を蹂躙するに等しい、剥き出しの「検分」であった。
ジャンは、自らの職務に迷いを挟む男ではない。解剖すら日常的にこなす彼にとって、これは解析すべき事象の一つに過ぎなかった。
「……。今から提督の命に従い、君の検分を行う。これは君という個体の正体を医学的に証明するための業務だ」
ジャンは作業的に道具を手に取り、事務的な口調で続けた。
「ひどく恥ずかしい思いをさせるだろうが……仕方のないことだ。我慢してくれ」
その言葉に、渚の頬は一気に朱に染まった。
現代から来た彼女にとっても、異性の軍医に全身を隅々まで調べられるのは耐え難い羞恥であった。彼女は震える手で自身の軍服の襟元を握りしめ、俯いて視線を落とした。
だが、数秒の沈黙の後。
渚は深く息を吐き出すと、顔を上げ、恥じらいを振り切るように静かに、けれど毅然と頷いた。これもまた、自分がこの世界で「航海士」として生き残るために支払わなければならない、当たり前の代償なのだと理解していたからだ。
渚が覚悟を決めてコクリと小さく頷くと、ジャンは一切の躊躇なく、持ち合わせた冷徹さで検分を開始した。
一糸まとわぬ姿となった彼女を、ジャンは冷たい指先で精査していく。
白磁のように滑らかで、この時代、誰もが抱えるはずの痘痕やノミの跡一つない、恐ろしいほどの清潔さ。そして何よりジャンを戦慄させたのは、その末端に至るまでの「完璧な管理」だった。
(……信じられん。爪の先まで、爪垢一つ、ささくれ一つない。どれほど丁寧に手入れをすれば、これほどまでに磨き上げられた指先を維持できる? 食事か、あるいは環境か……。欧州のいかなる王族ですら、足の指の先までこれほど「無垢」であることは不可能だ)
「……処女ヴィエルジュか」
確認するように呟きながら、ジャンはその領域へと指を侵入させた。
慈悲も躊躇もない、冷徹な「検品」としての触診。
指先に伝わる抵抗感。粘膜の緊張。
(……嘘ではないな)
そこには、男性を知った痕跡も、あるいは野蛮な暴力によって蹂躙された形跡も一切なかった。欧州のいかなる王族や、神に仕える修道女ですら、これほど「不可侵」であることは不可能だ。それは、彼女の身元が単に「潔白」であるという以上に、彼女の存在そのものがこの世界において「異物」であることを無言で叫んでいた。
だが、検分を進めるほどに、ジャンはさらなる矛盾に突き当たった。
(だが、単なる深窓の令嬢ではない。指先には膨大な計算を繰り返してきた学者のようなペンだこがある。……それだけじゃない、この掌はどうだ。実際に重いロープを扱い、荒れ狂う舵をねじ伏せてきた、叩き上げの水夫特有の硬い豆がある。体つきは細いが、その下には無駄のない、しなやかで強靭な筋肉が張り付いている。……学識と、現場での過酷な労働。その両方を、この若さで極めている身体だ。あんな完璧な『専門家』の肉体、欧州を探したって見つかりゃしないぜ。……まるで、神殿の石像のようだ…)
診察を終えたジャンは、呆然とした表情で立ち尽くす渚を部屋に残し、重い扉を閉めた。
扉の外では、二角帽子を傍らに置き、落ち着かない様子で指を組むアドリアンが待っていた。
「……ジャン。それで、どうだったあの者は」
アドリアンの問いに、ジャンは水盤で手を洗い終えると、無造作にタオルで指を拭った。
「まぁ急かすな。他人のことには無関心なお前がえらく気に掛けてるものだな」
「……茶化すな。彼女の存在は、この艦隊の存続に関わることだ」
アドリアンが不快そうに視線を逸らすと、ジャンはふっと優雅に、だがどこか引きつった口角を上げた。
「まあ、そう硬くなるなよ。提督から『すべてを剥いで検分しろ』と言われた時は、さすがの俺も少し引いたが……実際にすべてをこの目で見て、納得したよ。あの子は、俺たちの知るどの身分にも、どの国籍にも当てはまらん。医学的に見て、存在そのものが矛盾の塊だ」
ジャンは壁に背を預け、診察記録を弾いた。
「結論から言おう。隅々みなくとも嫌でもわかる。肌と歯、そして爪だ。欠けも腐敗もなく、指先の一つ一つまでが宝飾品のように磨き上げられている。なのに、手には学者のだこと、水夫の様な豆が同居している。……あの異質さ、俺にはもはや人間には見えなかったな。」
ジャンの言葉に、アドリアンは深く、重い溜息を吐き出した。
「……そうか。」
「ふっ。何よりお前があの娘を最初に見つけず、薄汚い水夫どもの手に渡っていたら、彼女は蹂躙され、その才能は海の底に消えていただろうな。そして、今頃俺たちも魚のエサになっていたはずだ。……しかも、あの嵐の日の姿を見た者なら、誰も彼女に不用意に手出しなどできまい。ありゃあ、救世主なんて生易しいもんじゃない。海そのものを支配する、恐るべき『何か』だった」
ジャンは再び部屋の扉を振り返り、去り際にアドリアンの肩に手を置いた。
「提督は彼女を『勝利を呼ぶ乙女』として祭り上げるつもりだろうが……。かつてこの国を救ったとされる聖女が、最後はどう扱われたか。熱狂の末に祀り上げられた者は、不要になった途端、恐怖の対象となり、火刑台へと追いやられる。あの子のあの異質さは、一歩間違えれば、あの子自身を焼き尽くす薪になるぞ」
アドリアンは何も答えず、ただ強く拳を握りしめた。
「……ご心配をおかけしました、アドリアン様」
検分を終え、着替えをすました渚が扉を開けでてきた。
ようやく絞り出した声は、まだ少し震えていた。
渚は、軍服の襟元を何度も指先で整えながら、部屋の外で待っていたアドリアンの前に立った。
先ほどまで、異性の軍医にすべてを晒していた屈辱と、冷たい検分の感触が肌に残っている。
アドリアンは、ジャンの報告を聞いた直後の複雑な表情を浮かべていた。
「……顔を上げろ。ジャンから話は聞いた」
「はい……」
渚はゆっくりと顔を上げた。その頬はまだ朱に染まっていたが、瞳には確かな光が宿り、アドリアンの目をしっかりと捉える。
「アドリアン様。私は……自分がどこから来たのか、なぜこの身体がこれほど異質なのか、そのすべてを今の言葉で説明することができません。無理に話せば、それはきっと嘘になってしまうからです。」
渚は一歩、アドリアンに歩み寄った。
「ですが、ジャン先生に見ていただいた通り、私の手に刻まれた豆と、この頭にある知識だけは本物です。私は航海士です。この艦隊を、そして私を拾ってくれたあなたを死なせないために、私はここにいたい。……それだけは、信じていただけませんか」
その言葉は、あまりに剥き出しで、この時代の軍隊では到底通用しない、幼い「誠実」だった。
だが、アドリアンの胸には、その言葉が鋭く刺さった。
かつて自分の両親は、自分を救うために「不忠」という偽りの盾を使い、彼を泥の中に突き放した。彼にとって「真実」とは、時に愛する者を壊す劇薬であることを知っている。
だからこそ、正体を隠しながらも、魂の根幹において嘘をつかないと誓う目の前の少女が、ひどく危うく、そして尊く見えた。
アドリアンは、しばしの沈黙の後、不器用に手を伸ばした。
そして、渚が何度も直していた軍服の、歪んだ襟元を無造作に、けれど優しく整えた。
「……馬鹿な奴だ。軍法会議なら、その曖昧な答えだけで極刑に処されるぞ」
「……すみません」
「だが、ここは戦場だ。お前の言う通り、我々を勝利に導くのがその『手』だというのなら、これ以上の証拠はない」
アドリアンは、かつての高貴な騎士が誓いを立てるように、渚の肩にそっと手を置いた。
「行こう。提督がお待ちだ。お前という『盾』が本物かどうか、その航海術で証明してみせろ。……俺が、お前の背中を預かってやる」
渚は目を見開き、そして今日一番の、迷いのない笑みを浮かべた。
「はい、アドリアン様!」
二人は並んで、シャルル提督の待つ執務室へと歩き出す。
ジャンの不吉な予言――「聖女を焼き尽くす薪」という言葉が、アドリアンの脳裏を掠めたが、彼はそれを振り払うように拳を強く握りしめた。




