Scene1
教室の後ろのドアを開ける。
「…」
多少の私語が起きていた教室が一瞬で静まり返る。一斉に自分に集まる視線を無視して、自分の席に向かって歩き出す。
静寂を嫌うかのように教壇にいる教師が授業の続きを始めた。生徒達も気を取り直して自分から視線を外す。
自分の席に座り、机の中に手を入れる。
「…」
机の中に入っていた構造主義についての解説書を取り出した。途中まで読んでいたページを開き、残りの時間を潰そうと文字に集中する。
「神谷」
集中してものの二秒で阻害された。次に開くページが分からなくならないように本は閉じないまま、目線だけを教卓に移す。
「…はい」
「教科書はどうした?」
何を言ってるんだ、と思った。おそらく顔にも出ている。
「…教科書がないから、授業に遅れたんですけど」
「何故最初からそれを言わない?」
またか、と思いながらも静かに言う。
「…ついさっき、教科書の件は伝えていると伊藤先生に確認しましたが」
そもそもこの教師が担任に持っている生徒が起こした問題なので、知らない筈はなかった。わざと知らないふりをして気に食わない生徒を貶めたいのが目に見える。教室にいる人間もそれは理解しているだろうが、おそらく期待している結果はこの教師と同じことだろう。
「…」
教師は考えたように黙り始めた。考える暇を与えないように、口を開いて言葉を続ける。
「今から確認してきますか?さっきも聞いたことなので疑問に思って色々聞かれそうですが」
「いや…そう言われれば聞いたかもしれん」
苦しい言い訳を当たり前のように通して、自分の過失については全く触れることなく次に進める。典型的な故意に貶めようとする人間の一例だ。こういう人間を何人も見てきたから、もはや憤りを感じることもない。むしろ自分の倍以上は生きている人間が行っている行為だということに怒りを通り越して呆れるだけだ。
「…それなら、ノートくらいは開け」
「問題集の問題を解くだけの時間ですよね?」
俺が教室に入るまでは数学の公式の解説をしていたようだったが、俺が教室に入ってきた瞬間に、途中だったにもかかわらず説明を切り上げて問題集に移ろうとしていたことくらいは理解している。
気に食わない生徒に嫌がらせをするためだけに、他の生徒への説明までも放棄するような人間が教師でいいのだろうか。
睨みつけるような顔つきをした中年の数学教師が、四問分の問題が書かれた黒板を見た。この教師の授業はパターン化されていて、授業の序盤から中盤にかけては数学の公式について説明や解説を、終盤は公式に対応する問題集を指名した生徒に解かせる形を取っている。今日は俺に嫌がらせをするために問題集パートに入るのが早くなっているが、結局はいつもより多くの問題を解かせるようにするだけだろう。
もちろん、授業に関係ない本を読むことが良くないことだということは理解している。
「じゃあ、お前はこの問題が解けるのか?」
「解けますよ。何番ですか?」
生憎、こういうケースを見越して教科書の内容は先んじて読んである。見越して…と言っても、読むものがなかった時に暇つぶし程度に読んでいたという要素もあるのだが。
今まで隠していた敵意を表に出して忌々しそうな表情を見せながら、四番目…つまりは応用問題を指差した教師には目線も合わせず、開いていた本のページ番号を覚えながら閉じた。ブックカバーを栞代わりにする手もあるのだが、借りている本なだけにあまり傷めるような真似はしたくない。
席を立ち上がって教壇に上がり、既に多少持ちにくくなりつつある長めのチョークで黒板に数式を書いていく。他の生徒と大して変わらないのに「文字が見にくい」と別の教師から文句をつけられたことがあるので、文字の綺麗さにも気を付けなければならない。
生きにくい世の中だな―――
良くない意味で他の生徒とは違った扱いを受けると、自分が何故この場にいるのか理解できなくなる。
本当はここにいなくてもいいんじゃないか、という気さえしてくる。
「…」
数式を書き終えて念のため確認をした後、チョークを置いてこれ見よがしにチョークの粉を払う。教師には何も告げずに足早に自分の席に戻り、自分の机の上に置いた構造主義の解説書を再度開いた。数式を書いている途中でページ番号を忘れなくて良かった。
記載した解答の成否すら言わず、数学教師はいつもより眉間に皺を寄せて残りの問題を解く生徒達を指名し始めた。それが逆に解答の成否を示していた。
今日の授業中はもう絡んでこない。そういう確信を持って、目の前の本の内容に集中を始めた。
◆
食堂に行くと、予想以上に混んでいた。奥の方はそこそこ空いているが、手前の方になるほど席が空いていない。教室に戻ることも考えたが、手間を考えて戻るのをやめた。教室の空気がどんな状態でも特に気にすることはないが、そこそこ長い距離を昼食を持ったまま移動するのが面倒臭い。
食堂の中間くらい…中間より少し手前の八人掛けの席に、外側四席を開ける形で女子生徒が固まって座っていた。全員髪を染めていて、カラーレベルを十から順番に並べたかのように全員色の違う茶色だった。
一番髪色が明るい女子の左隣に座り、購買で買ってきたおにぎり二つと牛乳、それと財布を机に置き、教室から持ってきた構造主義の解説書を開きながらおにぎりの封を開けた。
食堂でも自分と同じように本を読んだり、スマホを食い入るように見ている生徒は多い。窓際では日の光を浴びながら寝ている生徒も存在する。
昼休みの時間は大抵本を読んで過ごしている。たまに教科書を読むこともあるが、持っている教科書は全て読み終えたので学年が変わるまで見ることはないだろう。
二つ目のおにぎりに手を付ける頃には、隣に座っていた女子四人が一つずつ右の席にズレていた。特に気にすることなく、むしろ快適になったと思いながらも、ポケットに手を入れた時だった。
「なーにやってんだよ?」
「…」
背後に人の気配がした時点でポケットに手を入れて臨戦態勢を取っていたが、見知った声が聞こえたのでやめた。但し、その直後に頭上から横向きの顔が降ってきた時は苛立ちで手が出そうになった。顔面に張り付いているわざとらしくおどけた表情も苛立ちを加速させている。
「…俺が悪かった」
こっちが放った殺気に気が付くのが早い。「話し合うよりも殴り合った方が仲良くなれる」という言葉の通り、一度殴ったことのある相手は理解が早い。
特に口を開かずにいると、空いている俺の前の席に座った。何も持っていないところを見ると、昼は既にどこかで食べてきたらしい。
殺気を放ってからは真顔でこちらの様子を伺うようにしていたが、席に座った途端にニヤニヤした笑みを浮かべた。何かを企んでいるというよりは、好奇心で笑っているのが目に見える。
「また人を殴って重役出勤だって?」
「お前の時と違って殴る前に終わったよ」
美馬は誇らしげに笑った。
美馬はこの学校内で普通に話しかけてくる数少ない人間の一人だった。
人目を惹く整った顔立ちに染めたばかりの金髪を無造作にセットしていて、学ランも全てボタンを開けて中の赤いTシャツが見えている。出会った時からほとんど変わらない容姿をしているが、当時は血走った目で今にも怒鳴り散らしそうだった鬼気迫る表情から、今では人懐っこい笑みを浮かべている点が唯一変わっている。
この高校に入学してから、四人目に俺に挑んできたのが美馬だった。事実とは異なる屈折した情報を間に受けて、三人目の敵討ちとして挑戦してきた。
当然誤解を解こうとしたのだが、聞く耳を持たずに襲いかかってきたので正当防衛で校舎の壁に強めにキスさせた。それでも戦意を喪失しなかったので正当防衛で殴り合った結果、今に至る。
「バカだよなー、そいつらも。殴られる度胸もないのに手を出すなっての」
殴ってはいない。美馬と同じく地面に求愛行動をさせただけだ。
「教科書処分すれば俺が教科書買い直せないと思ったんだろ」
数学の教科書がなかったのは、あの数学教師のクラスの生徒がわざわざ俺のクラスまでやってきて机の中にあった教科書を盗み、焼却処分したからだった。ご丁寧に焼却処分した時の火を使ってバーベキューをする動画をSNSに公開したせいで人物を特定するまでに至り、停学処分で今頃家の中にいるだろう。
当然SNSに証拠が残っているので、俺の方は軽い注意程度で終わった。俺のことを良く思わない教師が事実とは異なる状況をでっちあげようとしたが、色々手を回したおかげで今こうして普通に学校生活を送っている。相手方も鼻の骨を折っているのだが、頼る人間を間違えなかったおかげで処分すら軽くなったようだ。
「…それを聞くためだけにこっちの校舎に来たのか?」
俺が通っているこの私立高校は二つの学科に分かれていて、普通科と商業科の二つの学科がある。俺は普通科の生徒なのだが美馬は商業科の生徒であり、そもそも授業を受ける校舎が分かれている。異なる学科の校舎に入ってはいけないという校則はないのだが、入る必要も特に無い。部活動や食堂の利用で商業科の生徒を見ることはまあまああるので基本的に変な目で見られることはないのだが、美馬の場合は話が別だった。
「今日、藤井の誕生日なんだよ」
「で?」
藤井という人間に心当たりはない。商業科の生徒なのだろうが、普通科にいる人間とも仲良く会話したことがないのに商業科にいる人間の名前を把握している筈もない。過去殴り合った相手でも、名前を聞く必要なんて無いのでこの学校の生徒の名前はほとんど把握していない。
「親父に頼んでバー貸し切りにしたから、お前も来いよ」
「断る」
開いていた本に目線を戻しながら迷わず即答した。藤井という人物と面識もないので、誕生日を祝いに行く理由もない。もしも俺が世間一般でいう陽キャという分類であるなら友達作りに行くかもしれないが、生憎そんな生徒なら学校全体から浮いた存在にはならない。
もしも美馬の誕生日なら少し迷ったのかもしれないが、それでも結局行かないだろう。誕生日から一転してお通夜ムードに叩き落す筈なので美馬にも迷惑をかけかねない。
「だーいじょうぶだって。女の子は全員他校の子だし、男に関しては全員お前の『事情』は知ってる上で歓迎してるから」
「それでもやめとく」
歓迎はしていないだろう。おそらくは「同じ場所にいる分には良いけど話しかけるのはやめておこう」くらいの考えで承諾していると思う。そもそも俺と友達だという事実だけで社会的信用が落ちかねないので、仲良くしようとする人間なんて美馬くらいしかいない。
美馬の父親はホテル経営をしていて、美馬の言う「バー」もホテルの地下に備え付けてあるバーを指している。美馬と揉め事を起こした際に美馬の父親にも会ったことがあるのでその時に知ったのだが、美馬の父親の左手には小指がなかった。
そういう人だということを知って息子の怪我に対しても報復されるのではと内心恐れていたのだが、予想に反して美馬の父親の俺への反応は良いものだった。そもそも美馬が絡んできた理由が誤解だったことと、今までの喧嘩で負けた経験がなかっただけで増長していた息子が少し真面目になった、ということらしい。
「頼むよ。今日は親父が顔出す日だから、お前を連れてこいって親父に言われてんだよ」
美馬が急に泣きそうな顔になって手を合わせた。そういう魂胆だったのか。もしも俺がすぐに承諾していたら何の前情報もなく会わせる気だったのかもしれない。
揉め事を機に息子が多少真面目になって成績が上がってきたことを大層喜んでいるらしく、美馬の父親は俺のことを気に入っているらしい。というものの、俺が普通科の生徒の中でもそこそこの成績を残していると知ってからは美馬がテスト前に俺の所に勉強を教えてもらいに来るようになったからだった。
親子関係も良くなったことで美馬自身がそのことを直接父親に伝えたらしく、それからは何かと俺のことを呼び出そうとしていた。一度一緒に食事をしたことはあるのだが、食事をした場所の格式が高すぎたことと美馬の父親の周りにいる黒服の威圧感で何を食べているのかわからなくなった。
そういう訳で美馬の父親に会うとなるとますます行きたい気持ちがなくなってくる。別に嫌いな訳ではないし、むしろ俺の身分を知っている上で近寄ってきてくれることには有難みを感じるが、だからこそ深く関わるべきではないと思っていた。ただでさえ見た目で誤解されそうな人が、関わっている人間によって誤解されることは避けたい。
「頼むって。来てくれるだけでいいんだよ。最悪途中で抜けてもいいからさ」
「…」
おそらく美馬は俺の予定が空いている曜日を父親に話している。俺の状況をある程度知っている人なので、俺が断る理由がほとんどないことも織り込み済みだろう。ここでわざわざ断る理由を試行錯誤するよりも、顔を出すだけ出して適当に過ごす方が楽かもしれない。適当に顔を出して、帰る理由を思いついた瞬間に帰ろう。
「…遅れて顔出してもいいのか?」
途端に美馬の表情が明るくなった。
「全然いいぜ。来てくれさえすれば」
「分かった、何も起きなければ行くよ」
何も起きないに越したことはないが、入学してから何度も問題を起こしている…いや、起こされている身からすれば断定はできなかった。まあ、食堂でヤクザの息子と問題児が会話しているところを見た人間なら今日は話しかけるのはやめておこうと思うだろうが。
美馬はじゃあよろしくな、と言って食堂から出て行った。気付けば、同じテーブルに座っていた女子生徒は全員いなくなり、混んでいる食堂の中で俺のいるテーブルだけが不自然に空いていた。まだ昼休みが終わるまで時間があるのに、俺が座るテーブルはいつもこうだった。
◆
放課後。案の定何も起きることなく、普通に授業が終了した。部活動には入っていないが、美馬が言っていたナントカって奴の誕生日パーティーに開幕から参加するのも気が引けた。名前は忘れた。
美馬の父親が経営するホテルの方向にある本屋に寄り、立ち読みしながら良さそうな本を探す。構造主義の解説書はまだ読んでいる途中なのだが、学校に置いてきたので今日読む本がなかった。
専門書、文芸書、実用書…色々見ていったが、周りが騒いでいても没頭できる、そういう本が良い。やはり小説が良いかもしれない。ミステリー系を選べば頭の中で色々考えられるし、SF系なら世界観次第で物語に入り込める。
小説のコーナーに移動し、数分間物色してから一冊の文庫本を手に取った。若者に人気のSFホラー系作家の作品で、突飛な設定が売りの作家だった筈だ。何冊か読んだことはあるが、作家本人が語っている通り作品自体にメッセージ性はなく、面白いか面白くないかだけを追求している内容だった。だからこそ登場人物を好き勝手に行動させていて展開が予想できず、面白かったことを覚えている。
レジに持っていき、図書カードを使って本を購入した。ブックカバーをつけてもらい、袋は貰わずそのままポケットに入れた。鞄はそもそも持っていない。
学校に鞄を持っていくと、俺のことを敵視している生徒や教師達の玩具になってしまうので、一度被害に遭って以降は持っていくのをやめた。教師が加担していたという事実も影響が大きく、以降俺だけは教科書を学校に置いて帰ってもいいことになっている。結果教科書焼却事件にも繋がったのだが、鞄を持たない分、私物にまで被害が及ぶことはない。
構造主義の本に手を出されなかったのは、おそらく学校図書館から借りた本の証明であるバーコードが確認できたからだろう。謎の良心が働いたか、図書館の本の弁償がチラついて日和ったのか。
普段より気持ち遅めに歩いたが、十数分で目的地に着いてしまった。軽い溜息をついて、汚れ一つないホテルのエントランスに入る。背中に鉄板でも入っているのかと疑いたくなる程姿勢の良いベルボーイが、洗練された動きで丁寧にお辞儀をした。つられて俺も会釈を返す。学ランを身に纏った明らかなクソガキ相手でもこんなに丁重な扱いをしてくれることに敬意を示したい。経営者の息子の関係者だと既に気付いているから丁重なのかもしれないが。
案の定、特に何も言っていないのに地下への階段へ案内された。とはいえ目的は間違っていないので促されるままに地下のバーに向かった。
ベルボーイが非常に重厚な防音性のドアを軽々と開けると、既に中から盛り上がっている声が聞こえた。ベルボーイに短くお礼を言って会釈をしたが、おそらくバー内の盛り上がりに搔き消されて聞こえていないだろう。
ベルボーイはうやうやしくお辞儀をしてドアを閉めた。バーの様子を見ると、学ランを着た男子が五人、ブレザーやカーディガンを着ている女子が十人前後いた。広いバーの一部の席だけを使っていて、テーブルを中心にしていくつかのグループに分かれて座っているようだった。合コンとも呼べる雰囲気ではあるが、男子に対して女子が倍近くいる状況だった。美馬ならおかしくはないか。
男子が女子を二人以上侍らせている場所もあるのだが、男子と女子が一対一で話している場所もある分、女子だけでテーブルを囲んでいる場所もあった。勝手な想像だが、「好きに飲み食いできる」という謳い文句に誘われて来ただけの女子もいるのではないだろうか。
「神谷様」
俺だけに聞こえるような絶妙な音量で、誰かが話しかけてきた。声の方を振り向くと、女性バーテンダーが俺に頭を下げていた。
「お飲み物は如何なされますか」
バーテンダーは顔を上げると、真顔のまま俺にメニュー表を差し出してきた。見たことのある人ではあったが、一度見ただけで俺の名前を憶えていたのだろうか。
「…トニックウォーターがあれば、それで」
無糖の炭酸水を頼もうとしたが、さすがに不自然に思われそうなのでトニックウォーターにした。美馬の父親のホテルとはいえどさすがに未成年にアルコールを提供することはしないが、場所自体はバーなのでカクテルの材料にもなるトニックウォーターは置いてあるだろう。
「かしこまりました。お運びしますので、お席についてお待ちください」
出会った時から一ミリも変わらない真顔のままお辞儀をして、バーテンダーはバーカウンターへ向かった。
バーテンダーのプロ意識に感心しながらも盛り上がっている場所の近くに向かい、唯一空いているテーブルのソファに座った。
唯一と言っても、現在使えるであろう席の話だ。この集まりのためだけにテーブルやソファの配置を変えているようで、広く使えるようにするために不要なソファやテーブルを端に除けている。
大きめの丸テーブルに三つずつソファが囲むように配置されていて、俺のテーブルの三つのソファには誰も座っていなかった。俺の性格を把握している美馬が、俺のために用意したような配置だった。
「お待たせしました」
柔らかすぎてやけに沈む高級ソファに困惑しているうちに、さっきのバーテンダーがトニックウォーターを持ってきてテーブルに置いた。早すぎると思ったが、カクテルじゃないので早いのも当たり前か。
お礼を言って会釈を返したが、ニコリとも笑わずにバーテンダーはバーカウンターに戻っていった。脅迫でもされているのかと思うくらい感情が見えない。
若干不安になったままバーテンダーから視線を外そうとした時、視線の通り道にいた美馬と目が合った。
途端に美馬が満面の笑みを浮かべて立ち上がった。美馬の周りにいた女子数人や、美馬の動きに反応した男子が俺の方を見る。
美馬が笑顔のまま手を振りながら俺の方へ足早に移動してきた。その笑顔を俺じゃなく女子に向ければ何人の女子を落とせるだろうか。いや、もう既に何人もの女子を落として手を出しているから、俺とは違った意味で学校内で目立っているのか。
美馬以外の男子は俺の姿に素直に驚きの表情を見せていた。学校内でも美馬以外の男子とはつるむどころか会話すらほとんどしないので、こういう集まりに顔を出したことが不自然なのだろう。
「サンキュ。来てくれたんだな」
事前に美馬から聞いていたこの集まりの開始時間からは既に一時間程度が経過していた。
「ここに座ってるだけでいいんだろ?」
「もちろん。時間潰しにコッチも紹介できるぜ。上も使っていいし」
美馬が隠すように小指を立てて言った。俺は目を閉じて首を振る。
上っていうのは、ホテルの部屋のことだ。美馬を含めたこの中にいる数人はこの後利用するのだろう。
「飲み物だけで十分だよ」
美馬は相変わらずだな、と困ったような笑顔を見せながら言い、さっきまで座っていた席ではなくバーカウンターの方に歩いて行った。
やけに快適なソファの柔らかさに欠伸を溢していると美馬と入れ替わりで誰かが近付いてくるのを感じた。なので、学ランのポケットに入れていた文庫本を取り出した。
同じ学校に通っている人物なら、面と向かって俺に関わろうとする筈がなかった。素行の良い生徒は生活のために関わってはいけないと理解しているか、親から関わらないように言われている。素行の悪い生徒は『高校無敗』という肩書きと今までの挑戦者の名前の大きさに怯えて絡んでこない。関わってくるのは捻じ曲がった事実を受け取ったバカか、表ではなく裏から匿名で絡んでくる人間だけだ。
だから、美馬の取り巻きの男子達ではないことは見なくても分かった。案の定、女子だけが座っていたテーブルの所から、俺のテーブルに移動してきたようだった。
「美馬君のお友達?」
きちんとセットしているであろうふわふわした茶髪のボブカットに、いかにも自信がありそうな微笑みを浮かべている女子が立っていた。その自信にも納得ができるくらいの容姿ではある。美馬達が手を出そうとしていないのが不思議なくらいだった。
俺が何も言わないで本に目線を戻すと、その女子は何も言わずに俺の隣に座った。テーブルを囲む他のソファ二つが空いているのに、何故俺の隣に座る?
ソファの質感は非常に柔らかく高級なのだが、大きさは三人がギリギリ座れる程度だった。美馬や他の男子達はそれによる密着を楽しんでいるようだったが、知らない人間に近寄られるのが苦手な俺は眉間に縦皺を刻んだ。
「軽い男の子達が多いみたいだけど、君は違いそうだね」
確かに美馬を含めて、ここにいる俺以外の男子達は全員遊んでいる。俺達の学校内でも有名で、誰かの誕生日ではなくても今日のような集まりは何度も開かれていて、女子の一部からは軽い軽蔑を、一部は気にせず集まりに参加を、その他は傍観をしている。
俺も美馬に誘われたことはあるが、参加したことはほとんどなかった。だから、この女子が言うように確かにそういう意味では他の男子達とは違うのかもしれない。
「何読んでるの?」
「本」
目線を合わせず、静かに答えた。そういうことを聞いているのではないということはもちろん理解しているが、これ以上会話する気もなかった。
「…私と話すのはイヤ?」
「まあ、そうだね」
正直に答えた。知らないからこそ話しかけることができているだけで、素性を知れば離れていくであろうことは誰よりも分かっていた。それなら、最初から仲良くならない方がお互いに良い。
隣に座っていた女子が立ち上がり、少しだけ俺を見つめた後に元の席に戻っていった。
目線を本から外さずにいたが、蔑むような視線を向けられたのは理解していた。
同じ場所にいる他の人物からの視線がいくつか向けられているのを感じていたが、気付かないフリをして本を読み進めた。
「…」
俺の隣のソファに、もう一人女子が座った。さっきのやり取りは周りに聞こえる音量ではなかったが、明らかに険悪な雰囲気で門前払いをしたのは誰か見ても明らかだった。
でも、さっきの女子とは違って無言のまま黙っている。時折困ったようにさっきまで自分が座っていた場所を見ているのが視界の端で見えた。手も小さく震えている。
俺も女子のやり取りは聞こえていなかったが、おそらくこの子は『押し付けられた』のだと思う。
さっきの女子が元の席に戻って何かを言っているのはなんとなく分かっていたが、立場の弱い女子が立場の強い女子に命令されてこっちに来たような雰囲気だった。
「本、お好きなんですか…?」
投げかけられた質問に、目線だけで隣を見た。
「…」
言葉を出さなかったのではなく、出なかった。さっきの女子とは対照的に、自信の無さそうな怯えたような表情。髪はストレートのロングヘアーをポニーテールにしていて、今まで見た人間の中でも一番濃い黒色だった。化粧を全くしていないのが一目で分かるのに、それに反して子供のように綺麗な肌と、リップクリームだけは塗っていそうな自然な色の唇。少しだけ細い黒い縁の眼鏡をかけていて、お洒落なカーディガンを着ている他の女子とは違い、偏差値の高い進学校の学校指定と言われても違和感のない真っ黒のカーディガンを着ていた。但し、座っている状態でも非常に小柄なのが分かるくらいカーディガンのサイズが大きく、スカートもロングスカートなのかと疑うくらい丈が長くて膝が見える気配もない。というか、ハイソックスに隠れて下半身は全く肌が見えなかった。
良い意味で、この場に相応しくない見た目だった。良く言えば真面目、悪く言えば地味。お世辞にも人目を惹く見た目とは言えなかった。偏差値の高い学校か、学力の高い大学を狙う予備校に行けば似たような女子がいるだろう。美馬達が手を出そうとしないのも納得できるくらい、普通…よりも地味な女子だった。
表に出ている表情や纏っている雰囲気も見た目のイメージから外れることはなかった。見た目だけが地味で中身は遊んでいる、という疑いすら出てこない。
「…まあ、一応」
自分自身でもぎこちなく答えたのが分かった。いつもならさっきの女子のように目線も合わせず突き放すように答えるのだが、予想外の容姿と「何故こんな女子がここにいるのか」という失礼な疑問に惑わされ、素直に答えてしまった。
彼女は俺が口を開いたことに少しホッとしながらも、相変わらず怯えた様子で次の質問を口にした。
「普段、どんなの読むんですか…?」
「…霜月八城とかかな」
答えてから、普通に会話をしている自分に驚いた。普段なら「言ってもわからない」と返している筈だった。
しかし驚きを咀嚼するよりも前に、彼女の表情が一転した。裏を感じさせない純粋な喜びの表情。
普段から特定の人間以外とはほとんど会話をせず、たまに会話すると軽蔑と恐怖と悪意に満ちた感情を向けられることしかなかったせいで、普通の人間ならなんでもないと思ってしまうような彼女の表情に見惚れてしまった。
「いいですよね、霜月先生。表現が人を選んじゃいますけど、出てくる人物ひとりひとりに魅力があるので新しい人物が出てくる度に楽しみなるというか…」
表情だけでなく、返ってきた答えにも面食らった。彼女の言う通り霜月八城という作家は人を選ぶ上に、そもそも知名度も高くないマイナーな部類の作家なので知っているとは思っていなかった。動揺と疑問にグラつきながらも、彼女が知らないであろう作家を選んだつもりだった。彼女の発言で、知ったかぶりではなく実際に本を読んでいるのも察することができる。
彼女からはさっきまでの怯えた様子は消えて、出てきた話題に正直に言葉を発していた。
目の前にいる、明らかに素行の良くない男子が怖くはないのだろうか。
「お待たせしました」
美馬の声と同時に、彼女はビクッと身体を震わせた。
視界にずっといた筈なのに、彼女の背後から美馬が近付いてきていたことに気付かなかった。彼女を注視しすぎて、美馬が今まで何をしていたのかも把握できていない。バーカウンターに行った後、バーテンダーに何かを言っていた所までしか覚えていなかったが、どうやら俺のテーブルに置くナッツやスナック類を用意していたらしい。
美馬はウェイターのように微笑みながらナッツの入った高級そうな籠をテーブルに置き、わざとらしく一礼して元の席に戻っていった。俺にしか見えないようにウインクをし、微笑みがからかうようなにやつきに変わる。
本の話をしていた時とは違い、彼女は歪な笑顔で美馬にお礼を言った。美馬の表情は見えていないので、単純に美馬の存在に怯えているようだった。
途端に彼女が心配になってきた。明らかに彼女はこの場に似合わない。美馬レベルの美形男子にすら怯えるような女子が、この後下手をすると複数人相手にすることになる。そして、彼女自信もおそらくそれを望んでいない。ここに来たのも、誰かに無理矢理連れてこられたのかもしれない。
自分の素性を知らない人間とは関わりたくないと常々思っているが、別に悪意がある訳ではない。自分に悪意を向けていない、明らかに困っている人間を見捨てる程腐ってはいない。
彼女にしか聞こえない音量で、静かに口を開いた。
「…ここを出たいんだけど、協力してくれない?」
「…え?」
彼女は純粋な疑問の表情を浮かべた。
「呼び出されて気乗りしないままここに来たけど、予定が出来たら帰っていいって言われてる。適当に話を合わせてくれたら俺もここを出られる」
言いながら、俺にも得があると気付いた。正直美馬の父親に会いたくないし、この場で冷たい視線を浴びながら本を読み続けて盛り下げるのも誕生日の奴に悪い。そもそも美馬が口を滑らせただけで、美馬の父親がこの場に顔を出すことを俺は知らないことになっているから、「ちゃんと顔を出したけど、その場にいた子と意気投合して一緒に出て行った」なら問題ない筈だ。美馬としてもちゃんと俺を呼び出しているから目的は果たしている。
「もしも君が残りたいならこの話は忘れてくれていい。ここで本読んでるだけだから」
彼女はじっと俺を見ていた。俺は彼女と目を合わせることなく、彼女の答えを待った。
「…外に、出たいです」
「決まりだな」
すぐさま本を閉じ、立ち上がった。立ち上がろうとする彼女を手で制し、美馬が座るソファに向かった。
美馬はすぐさま俺に気付き、どうした?という表情を見せた。
「あの子と外に出る」
美馬は驚いた表情を見せた。俺の性格を理解している人間からすれば、言葉を失うくらい驚く行動なのだろう。それまで上機嫌で女子と会話していた他の男子達も会話を止めて、唖然としたまま俺を見ていた。
美馬は少しの間驚いたままだったが、何かに気付いた顔をした。こちらの真意に気付いたようだ。
すぐさま俺に微笑みを向けて立ち上がり俺の肩を叩いた。
「りょーかい。親父には伝えとく」
「悪いな」
短く伝えると、周りの視線を浴びながらも彼女の所に戻る。彼女はバーテンダーから自分の鞄を受け取っていた。
「じゃ、出ようか」
「…はい」
彼女は静まり返った中で全視線を浴びていることにいたたまれないのか、俯いたままスクールバッグの持ち手を強く掴んでいた。照明の関係で確信はないが、俯いて隠れている顔も赤いような気がする。
対する俺は注目されることには悪い意味で慣れているので特に動じることなく出口に向かう。
いつの間にか出口にいた美馬が、にやにやしながら俺の肩に手を置いて囁いた。
「上使うか?」
最大限の威力を込めたデコピンで答えを返し、重厚なドアに手をかけて力を入れた。




